ウミへ
すやすやと眠っているサナギは目を覚まさなかったので、僕達は海遊館から出ることにした。出口に向かう廊下には明るい橙色の西日が差し込んでいた。ガラス越しに広がる暗い海の波音がここまで届く。
「起きませんね」
トオル君はつんつんとサナギの頬をつつく。サナギのほっぺたの触り心地は抜群らしく、彼は暇を見つけてはサナギのほっぺたを連打するのを趣味にしている。どうかと思う趣味だ。ガラス越しのポールにトオル君はよりかかった。
「渚さん」
「なんだい」
「サナギはどこから来たんでしょうか」
視界には白く波打つ海が広がり、日が傾きかけていた。
「深い海の闇の底から、かな」
あははっと彼は明るい声で笑う。
「それは何かのキャッチフレーズですか」
僕は肩を竦めて佇んでいた。二人が並んだガラスに手の中の子供は映らない。
ここにはいない筈の子供。いないことになっている子供。ならば。
「沈めてみようか」
波の音に掻き消えそうな小さな声だと思った。しかし隣のトオルは目を見開けたので、聞こえたのだと僕には分かった。
「誰にも見えていないんだ。特に騒ぎにもならないだろうし」
それでこの子供がなんなのか分かるかもしれなかった。眠る身体はぽかぽかと温かく全身を僕に預けて深い眠りについていた。この小さな身体はなんの抵抗もなく冷たい海面に落ちるだろう。深い海の底に落ちて行ってきっともう二度と。
僕はなんの感慨もなくそれができる。僕は他人に興味を持たないのだから。
サナギを抱える手のひらに激痛が走った。指の全ての爪を立てて僕の手に深く深く突き刺している。赤くなった顔が睨みながら僕に怒りを訴えた。
「冗談でもそんなことを、言わないでください」
「うん、ごめん」
結構本気だったのだが、こちらを睨む瞳は濡れていたのでこれ以上余計なことをいわなかった。
突き立てられた爪がそのままで痛かったので、僕はトオル君の手を取るついでに手を握って歩き始めた。俯いた彼は帽子を深く被りなおしてとぼとぼと歩いてついてくる。
「渚さんのことが少し、信じられなくなりました」
「それは君が僕のことを買い被っていただけだよ」
僕は元々こうゆう男だし、サナギが現れた後も特に変化もなかった。きっと僕の内面の平坦さを知ったらがっかりするだろうなと思うことが実は度々あったりする。頬を膨らませて完全にへそを曲げたトオル君はぷんぷん怒りながら言う。
「サナギを捨てる際には絶対に僕に言って下さいよ。拾いますから貰いますから育てて見せますから! サナギのほっぺたのつやつやさは僕が守って見せますからね」
「あ、そこ重要なんだ」
「もちろんです、もち肌は大事です!」
変なことを力説してトオルは僕からサナギを奪った。急に離れた熱にびっくりしたのかサナギは目を覚ましたが、トオルの胸元に収まるとほっとしたように顔を寄せて凭れかかった。
「はい、サナギ。渚さんにバイバイしなさい。バイバーイ」
素直な子供はしっかりと僕に手を振って見せた。何故か不快な気持ちになった。
息を吐いたあと、僕はトオルに手を伸ばし、サナギを返してもらった。トオル君はしぶしぶ返したが、サナギは特に抵抗もせずに僕をじっとみたあと、もたれ掛って静かになった。戻ってきた熱の背を撫でながら僕は思う。
「なぜ君にはサナギが見えるのだろう」
そっぽを向いていたトオルは腰に手を置いて鼻息をつく。
「何かご不満でも?」
僕はくすりと笑って首を振った。
「いいや」
滅相もないよ。正直にいうと彼は軽く僕を叩いた。
お詫びに夕飯を御馳走して、最寄り駅まで彼を送って別れた。