ウミへ
それは少し前の話になる。
ある日、自宅に帰ると一人の子供が足の届かないソファにちょこんと腰かけて、ぶらぶらと足を揺らしていた。
鍵を差し込んで帰宅した一人住まいの家に突然現れた子供に僕は眉をひそめた。
何故こんな部屋のど真ん中に子供が?
疑問には思ったが、その子供の顔はどこか見覚えがあった。
不法侵入とはいえこんな小さい子供を警察に突き出すのもどうかと思ったが、一応連れて外に出ても警察には辿り着けなかった。たまたま外で出会った大家は僕に言った。
「あれ高道さん。アンタ仕事から帰ってきて、またどこかでかけるのかい」
僕は茫然と大家を見返した。僕は独身で子供の知り合いはいない。それなのに連れている子供が話題に上がらなかった。
「えっとですね、この」
僕は小さな子供の手を軽くひいてみせた。しかし大家は不思議そうに僕の手の動きを見ているだけだった。そのあと僕は他の人でも何度から試してみて確信を得た。
見えていないのだ。
相手は僕の腰までも満たない子供で手を握っても、そこには確かにぬくもりがあるし、おそるおそる抱いてみても違和感を覚えることはなかった。
ただ見えていなかった。
事実を確認した僕はやや途方にくれて座ったソファから、フローリングの上に腰を下ろしている子供の姿を眺めていた。与えた本を静かに眺める子供の後ろには姿見が置いてあった。
そこにはたった一人の僕の姿しか映っていなかった。
頭が可笑しくなったのかもしれないと思った。精神科医かカウセラーが必要だろうか。仕事をしながら怪しい子供を一通り眺めていた。しかし子供は特に手のかかる様子もなく、一人で家にあるもので迷惑にならない程度に遊び始めた。
僕は元よりあまり他人というものに興味を持つ人種ではなかった。
「・・・・・・」
誰も目に映らない子供に、それに特に困らない己。
妥協というより横着さが勝った結論を出した。
このままでも別にいいのではないか。
僕は無口な子供との静かな日々を続けた。
一人の例外と出会うまで。
「はいこれ。坊やのボールでしょう。でも道路に飛び出しちゃだめだよ、危ないから」
転がったボールを差し出して、制服を着た少年はサナギに微笑みかけた。