The El Andile Vision 第2章
「今の薬が効いてくれば、少しは出血もおさまると思うんですが。――縄を解いてあげてもいいんだろうが、手負いの獣ほど、危険なものはないといいますからね。普通なら、深手ではないとはいえ、それだけの傷を負っていたら、ちょっとやそっとじゃ動けないところだ。わざわざ縛っておく必要もないんでしょうが、少なくとも、今のあなたの目つきを見たあとじゃ、とてもあなたを自由にする気にはなれないな。この点では、モルディ・ルハトは正しかったということがわかりましたよ。最も、彼はもともとはあなたを生かしておくこと自体が危ないんだと主張してたんですけどね。悪いが、しばらくはそのままでいてもらいましょうか」
「……どこへ、連れて行く」
水で少し喉が潤ったせいか、今度はうまく言葉が出た。
「ジェラトへ向かっています。少し厄介なことになりそうですよ。ユアン・コークがあなたに興味を示しているようです。恐らくザーレン・ルードへの揺さぶりにあなたを利用するつもりなんでしょう。まあ、モルディ・ルハトも命拾いしたわけだ。あそこで私が現れるのがもう少し遅ければ、あなたはあいつに殺されていただろうし、そうなったら、ユアン・コークはモルディを決して許さなかったでしょうからね」
イサスははっと息を飲んだ。
「ユアン・コーク――ザーレンに……何かあったのか?」
イサスの表情を見て、エルダーは意外そうな顔をした。
「自分の身より先に、ザーレン・ルードの方が気になりますか。これはまた……狼らしからぬ、涙ぐましいばかりの忠誠心だな」
彼は面白そうに笑った。しかしすぐに真面目な顔に戻ると、エルダーは改めてイサスをじっと見据えた。
「――仕方がない。では、教えてあげよう。実は……州侯の死が自然死ではなかったという疑惑が持たれているのです。その中で、今、ザーレン・ルードはかなり危険な立場にいる」
イサスは愕然となった。
「まさか……そんな――」
「ユアン・コークはここで一気にザーレン・ルードを叩き潰すつもりでしょうね。――そこで、あなたは格好の材料となるわけだ。恐らく、あなたもザーレンも、ただでは済むまい……」
エルダーはそう言いながら、イサスの顎を片手で持ち上げた。息がかかるほど、二人の顔が接近した。
「――さて、どうします。このまま私と聖都イシュナヴァートまで、逃げますか。それなら、力になれるかもしれない。ただし、このエランディルを私に委ねてさえ下さるならの話だが……」
エルダーの手が、イサスの胸元を探った。そこにあるはずの、石の冷たい感触を求めて――
本能的な嫌悪を感じて、イサスは体を捩り、エルダーの手を激しくその身から振り払った。
瞬時に鋭い痛みが体を苛んだが、彼は気にかけなかった。
「……ふざ……けるな……!誰が――!」
エルダーは溜め息をつくと、身を引いて再び床に腰を下ろした。
「やはりね……そう言われると思った。いいですよ。仕方がない。こちらも当分成り行きを見守ることにします。しかし、相当覚悟しておいた方がいいな。ユアン・コークは切れ者ですからね。モルディ・ルハトの比ではない。さて、どんな手を使うことか……」
エルダーはそれだけ言うと、ついと顔をそむけた。彼は少し自分だけの考えに耽り出したようだった。
イサスにとっても会話が途切れたことは、有難かった。彼にもいろいろと考えなければならないことが山積していたのだ。
しばらく沈黙が続いた。車輪の音だけが、虚ろに響く。
イサスはふと呼吸が楽になってきたことに気付いた。痛みもやや、やわらいだように思える。先程の薬の効果か。
「ようやく薬が効いてきたようですね。だいぶ楽になったでしょう」
エルダーが、そんなイサスの様子を横目で窺うように見て、声をかけた。
「――もっとも、あなたの中に眠っている、そのエランディルの力のせいもあるかもしれませんがね。エランディルは、『契約者』を最後まで守る。『契約者』が自らの意志でその『契約』を破棄しない限り」
エルダーはそう言うと、イサスに鋭い視線を送った。
「……また、それか」
イサスは息を吐いた。
彼にはまだわからないことばかりだった。いったいこの若者が何の話をしているのか。
自分の中にあるという『エランディル』とはそもそも何なのか。――彼には皆目見当もつかなかった。
ただ、その言葉が自分にとって、初めて聞いたものではないということだけは、直感的にわかるのだ。
どこまでも、遠く記憶の糸を手繰り寄せてみると、その端にひっそりとぶら下がっているのかもしれない。
「古代フェールの伝説を、ご存知ですか」
突然、意表を突くように発せられたエルダーの問いに、イサスは一瞬何と答えてよいかわからなかった。
「フェール――あの、神話や昔話に出てくる……?」
そう言いながらも、『フェール』という言葉を聞いたとき、すぐに彼は自分の胸に下がる石を包む袋に縫い取られていたあの奇怪な文様を思い出していたのだった。
(そういえば、古代フェール文字だと、ザーレンが言っていた……)
しかし彼はそのことについては何も言わなかった。
ただ、それでも彼は問い返さずにはおれなかった。
「――そのフェールが、何か――?」
エルダーは、そんなイサスの心の内を知ってか知らずか、淡々とした調子で続けた。
「大方の者は、単なるお伽話に過ぎないと思っているようですが、実際はそうではありません。大空位時代より遥か以前、フェールは確かにこの世界に存在していた。大いなる力を礎にしてね……都は栄え、世界には安寧と秩序が保たれ、人々は光の王を讃えた――」
エルダーは歌うように言った。
イサスはまるで吟遊詩人の歌を聞いているかのような錯覚に襲われた。
「そのフェールに一人の錬金術師がいた。名をアル・トゥラーシュ・エル・ヴァルドという。彼は、フェールの聖なる力をあらゆる手法を用いてこの世に具現化しようとした。なぜかはわからぬが……そのうちの最も大いなる力……それが『エルム・ヌ・ランズ・ディオウル』――後の世には『エランディル』と略された――すなわちフェール語で、『光の王の持たれし玉』という意味ですが、これはその名の通り、フェールの王に受け継がれていったのです。しかしフェールが滅亡した後、これらの力も離散し、行方がわからなくなった。それが今、なぜかここにある。フェールの『光の王』と呼ばれた血筋の者のみが受け継いでいた古の力が、あなたの中に……。これが何を意味しているのかわかりますか。――イサス・ライヴァー」
エルダーの眼が探るように、イサスを見た。
その眼差しの刃のような閃きが、イサスの中に生じつつある未知なるものへの怖れを再び掻き立てた。
イサスは何か言おうとしても、何も言葉を発することができず、ただ呆然と口を開けたままでいる自分に気付いた。
――何という、荒唐無稽な話か。
イサスは一笑に付そうとした。――これは単なる与太話に過ぎない。あまりに現実から遊離しすぎている。
そうだ。笑って流してやろう。そして、下らない話を恥ずかしげもなく滔々と語り続けるこの愚かな遊芸師のお喋りな口を今度こそ閉ざしてやるのだ。
作品名:The El Andile Vision 第2章 作家名:佐倉由宇