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The El Andile Vision 第2章

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Episode.3 囚われた狼



 イサスは苦痛の海の中を、漂っていた。
 全身を、何か鋭い刃物で切り刻まれているかのように、彼の体を絶え間ない激痛が襲っていた。
 息をしようとするたび、新たな痛みが口を塞ぎ、彼はひっきりなしに喘がねばならなかった。
 いったい自分がどこにいるのか、彼には全くわからなかった。ただ、茫漠とした空間の海の上を漂っているかのようだった。
 時々、体の下から突き上げるような揺れが感じられる。それは波が動いていくのにも似た感覚であった。
 揺れは大きくなったり、小さくなったりした。普通なら、波の上を漂うなら、心地よさを感じてもよい筈だが、今の場合は異なっていた。
 むしろ、揺れを感じるたびに、不快感が募る。まるで船酔いしているかのようだ。
 それはやはり肉体の痛みに起因しているのだろうか。
 実際にひどい痛みだった。
 内部から抉られるような痛みに加え、手足がひきちぎられるように痛む。
 ふと見ると、体全体に細い糸が幾重にも巻きつき、それが常に彼の体をきりきりと締め上げている。
 まるで、蜘蛛の巣の糸に絡めとられた獲物のようであった。
 彼はもがいた。が、体を動かせば動かすほど、糸はますますきつく身に食い込んでくる。
 特に左腕の痛みがひどい。このまま肩から肉が裂けてしまうのではないかと思うほどであった。
 彼は声にならない呻きを上げた。
(いったい、俺はどうなっちまったんだろう……何でこんなに、息ができないほど苦しいんだ……)
 そうぼんやりと思ったとき、ふっと冷たい手が彼の額に触れる感触があり、彼は突然目を開いた。
「……気が付いたか」
 涼やかな声の主が、すぐ間近から、じっとイサスを覗き込んでいた。
 イサスが目の前のその人物の顔に焦点を合わせるのに、しばらく時間がかかった。
 ――確か、前にも同じような場面があった……。どこでだっただろうか――
 そう思ったとき、彼には突然それがわかった。
(そうだ、こいつは――!)
 あっと声を上げ、反射的に起き上がろうとした。
 が、その瞬間、体を締めつける耐え難いような痛みに、彼は再び苦悶の声を漏らした。
 体の自由がきかない。太い縄で後ろ手にしっかりと縛り上げられているのだ。足も同様に縛められている。
 手足がちぎれるように痛んだのは、この縛めのせいだった。
「動かないで。――傷が開く」
 遊芸師――エルダー・ヴァーンの碧い瞳が不思議な光を湛えて、じっとイサスを見つめていた。
「おまえ――」
 掠れる声で呼びかけたものの、その先を何と続けてよいかわからず、イサスはそこで絶句した。
 がくんと体の下から揺れが伝わってきた。エルダーもやや平衡を崩し、苦笑した。
「これは荷駄用の車ですから、揺れもひどいですが、まあ、辛抱して下さい」
 そう言われれば、ガラガラと車輪の回る音が聞こえていた。彼らは荷馬車の荷駄を積む幌の中に乗っているらしい。
 突如、鮮明に記憶が甦った。
 モルディ・ルハトとのあの戦い。モルディに組み伏されて、切っ先を突きつけられ、そして目の前の画像が急速にぼやけていった。
 すると、どうやらあの後、モルディは気を変えたのか。最後に彼が覚えていた場面からすると、どう考えても彼は死んでいなければならない筈だった。
 或いは、何か横槍が入ったのか。例えば、この目の前の若者がその一幕に関わっているのではないか。
 様々な考えが渦巻いたが、どれもはっきりとした答えには結びついていかなかった。
 何よりも今のこの状況では、頭が明晰に働かないのも当然だっただろう。
 彼は身じろぎをした。自分の体を改めて眺めると、かなりひどい手傷を負っていることがわかった。モルディから受けたものだ。
 右の脇腹辺りが特にひどい。取り敢えず、何か布が巻かれているが、じわじわと血が滲み出しているのが見える。どくどくと脈打つような痛みの感覚からして、まだ出血が続いているものと思われた。
 左肩も布で縛られていたが、こちらも裂けた傷口から染み出る血のぬるぬるとした生々しい感触があった。手を後ろにきつく縛られているため、余計に痛みが増す。
 次に大きく車が揺れたとき、イサスは傷に響く衝撃に、思わず大きく喘いだ。じわりと脂汗が額に滲み出る。
 彼の苦しげな息遣いを聞いて、エルダーは僅かに眉をひそめた。
「――痛みますか」
 彼は懐を探り、何かを取り出した。次いでイサスの方に屈み込み、その体をそっと持ち上げると、指で彼の口をこじ開けた。
「さあ、これを飲んで。――少しは痛みが引くはずです」
 つんと鼻をつく異臭がしたかと思うと、イサスの口中にその粉末状の何かが入れられた。
 次いで、筒先が唇の端に触れ、乾いた喉へ冷たい水が流れ込んでくる。
 その何ともいえぬ匂いと味に、イサスは少しむせたが、何とか口の中のものを喉下へ流し込むことができた。
「一応止血はしておきましたから、じっとしていれば、それ以上傷口が開くことはないでしょう。思ったより、傷が浅かったのが幸いしたな。……しかし、あのモルディ・ルハトの剣をよくもそこまで交わせたものですね。さすがは『黒い狼』の首領。やはり、あなたは常人ではない、か」
 エルダーはイサスの傍に座り込み、彼を見下ろすと、にっこりと微笑いかけた。
 まるで旅の途中で道連れになった旅人同士で世間話をしているとでもいうかのような、気のおけない親しみを込めた口調であった。
 しかし、それは勿論血に塗れ、拘束された相手を前にしている今のような状況からはおおよそ不似合いなもので、それだけにその不自然さを自然に演出しようとするこの若者のしゃあしゃあとした態度は、却って身の内を凍らせるような不気味さを感じさせた。
(こいつ……!)
 イサスは彼を見上げながら、一瞬心の中がぞくりと震えるのを感じた。
 エルダーの濃紺の瞳は一見柔らかに見えるが、その奥には確かに底知れない未知なる闇が潜んでいることを、彼は本能的に悟っていた。
 その感情を単に「恐怖」と名付けてよいものかどうか。……イサスにはよくわからなかった。
 少なくとも、モルディ・ルハトのような猛獣から感じる切迫した、生命を脅かされるような危機感とは違う。それはまた別の種類の怖れなのだった。
 生命、ではない。彼の存在そのものに関わる、何か深い因縁めいた繋がりを感じるのだ。
 「月の雫」亭の表で、あの時、この碧い瞳に覗かれたときの感覚がふと甦ってくる。
 あの時この青年が自分にしたこと。あれは、何だったのか。なぜ、彼がここまで自分に関わってくるのか。
 この未知なるものの存在が、彼をどうしようもなく脅かすのだった。
「……恐い目だな。まあ、仕方ないか。この状況じゃ、どう見ても私はあなたの味方には見えないでしょうからね」
 イサスの射るような視線に気付いて、エルダーは小さく肩をすくめた。
 彼はイサスの方に再び近寄ると、腹部と肩口の傷に軽く手を触れて、具合を確かめた。