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The El Andile Vision 第2章

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 エルダー・ヴァーンは扉が閉まるのを眺めながら、心の内でそっと呟いた。
 室内は一面に赤い毛織の絨毯が敷き詰められており、歩く足音を吸収した。
 一歩足を踏み入れるなり、イサスには室内が大きく歪んだように見えた。
 同時に体を通り抜ける奇妙な感覚。彼は目眩を覚えて一瞬、立ちすくんだ。
 ふと横を見ると、彼の両脇にいた兵士たちも同じように青ざめた表情をして足を止めていた。
(結界……といっていたな。この部屋には何かの呪術が施されているということか。恐らく、あの女が……)
 見ると、先に立つ女は平然と歩を進めている。
 イサスは一瞬襲った嘔吐をこらえて、再び足を動かした。
 幸いなことに、気持ちの悪さは長くは続かなかった。
 呪術によって歪められた空間の歪みが、そこへ入る瞬間に人の感覚器官に刺激を与えるのだろう。イサスは気を取り直し、改めて目の前を見た。
 さほど広くもない書斎だった。真正面に古めかしい大きな文机が置かれ、その前にこの部屋の主人が座って一同を出迎えていた。
 その人物こそがユアン・コークだった。
 まだ若い。
 ザーレン・ルードと同じくらいか少し上……それでも、せいぜい二十代後半といったところか。
 やや痩身であるが、顔つきは武人としての厳しさや、知的な政治家としての切れの良さを一目で相手に強く印象付けるものだった。
 尖った顎やきつく吊り上がり気味の鋭い光を閃かせる両眼を見ると、なるほど一筋縄ではいかなそうな切れ者としての風格を感じさせる。
 ザーレン・ルードとはまた違った意味で、彼も人の上に立つ者としての独特の風貌を漂わせていた。
「……ようやく、来たか」
 彼らが机からほどよい距離で立ち止まり、兵士が軽く敬礼をすると、ユアン・コークは椅子に身をもたせたまま、ゆっくりと目の前の少年に視線を走らせた。
「……また、えらく若いな。このような子供が『黒い狼』の頭目であったとは、全く驚いたものだ。――ザーレン・ルードも何を考えているものか。……そなた、名は何という」
 ユアンは少年に問いかけたが、答えはなかった。
 イサスは黙って下を向いたまま、顔を上げようともしない。
「おい、何をしている。ユアン様の聞かれたことに答えぬか!」
 そんなイサスの憮然たる態度に、傍らの兵士は苛立ちを抑えきれず、彼の体を小突いて答えを促した。
 しかし、少年は依然として何の反応も見せなかった。
「この……!」
 さらに怒鳴りつけようとする兵士をユアンは軽く手でいなし、黙らせた。
「――よい。何もおまえたちがそのようにむきになることもなかろう。黙りたいなら、黙らせておけばよい」
 ユアンは苦笑したが、ふと少年の微かな息遣いの荒さに気付き、その血の滲んだ体に眼を止めると、僅かに眉をしかめた。
「それに、どうやらひどい怪我をしているようだ。口の聞ける状態ではないのかもしれんな。
 ――何もそのように念入りに縛っておく必要もあるまい。縄を解いてやれ」
「恐れながら、ユアン様。それはなりませぬ!」
 そのとき、すかさず後方からモルディ・ルハトが進み出て、異議を唱えた。
「――いかに手傷を負っていようと、こやつは自由にするにはあまりに危険すぎる獣。このままにしておくのがよろしいかと」
 ユアンは目を眇めた。
「……ほう、これはまた、おまえらしからぬ弱気な発言だな、モルディ・ルハト。さすがのおまえも、よほど手こずらされたものとみえる。だがここでは心配は無用だ。この部屋はジェリーヌ・ヴァルダに結界を張らせているゆえ、逃げ出すことは不可能なのだから」
 ユアンが揶揄するように言うと、モルディはやや鼻白んだ様子だったが、主の断固とした顔つきを見て、渋々引き下がった。
 ユアンに命じられ、イサスの両脇にいた兵士が戸惑いながら彼の両手を縛っていた縄をほどいた。
 いましめが解かれ、両手が自由になったその瞬間、イサスの全身が突然息を吹き返したかのように、動いた。
 驚いた兵士の目には、少年の体がすっと地に沈んだかに見えた。
 何がどうなったかわからぬままに、兵士は足をすくわれ、あっと声を上げる間もなく、ほどいた縄を持ったままその場に横転した。
 もう一人の兵士が慌てて剣を抜こうと腰に手を回す前に、その足にも少年の強烈な蹴りが入り、彼もまた平衡を失って転倒した。
 イサスは倒れた兵士が気を取り直す前に、既にその腰鞘から剣を素早く抜き取っていた。その刃が、起き上がろうとした兵士の首筋を容赦なく掻き切った。
 血飛沫と悲鳴。
 他の者が我に返ったときには、既に二人のアルゴン兵はイサスの足元に動かぬ体を横たえていた。
 全てはほんの束の間の出来事であり、その場にいた者たちは皆、しばし呆気に取られてその場に立ちすくんだ。
(――なんと、大胆なことをする……!)
 ユアン・コークは目を瞠った。
 それは、彼には予測もつかぬ行動……であったか。
 いや、或いはそうではなかったかもしれない。
 モルディ・ルハトが警告した時、彼も心のどこかで、この少年が自由になった瞬間にこのような行動に出るのではないかと、漠然と予想していたはずだ。
 それでも、敢えて彼は賭けに出た。それは、彼の内にひそむ、また異なる欲求が自然とそうさせたものかもしれない。
 ――この獣の動きを見てみたい。
 そんな、はなはだ理にかなわぬような、それでいて同時に胸の高鳴りを抑え切れないほどの、ひそやかな興奮を伴う欲求。
 そう思わせずにおれない何かがこの少年の気から発していたのか。
(しかし、美しい動きだ。……ザーレンが仕込んだのか。それとも、生まれついてのものか――)
 そのとき、何とはなしに彼はやや離れたところに控えていた黒衣の女性に眼をやった。
 ヴェールに包まれたまま、その顔は見えないながらも、彼女もまた憑かれたようにイサスに視線を注いでいることがわかった。
(やはり、そなたも興味をそそられるか。ジェリーヌ・ヴァンダ。――いや、そなたの場合は少し違う意味でということであろうが……そなたは、この獣の中に何を見る――)
 ユアンは僅かに口の端を上げた。
「この……!」
 一方、気を取り直したモルディ・ルハトは怒りも露わに剣を抜き、イサスに向かっていった。
 しかし、その前に少年の身軽な体はひらりと文机の上に躍り上がった。剣が宙に振り上げられる。
「……ユアン様!」
 モルディが鋭く警告の叫びを上げた。
「ユアン・コーク!……ザーレンのために、おまえを殺す」
 イサスは机の上に立ったまま、すぐ真下のユアン・コークを見下ろした。
 はじめて両者はまともに顔を合わせる形となった。
 イサスの黒い瞳の中で燃えたぎる焔の、そのあまりの激しさに、ユアンは思わず感嘆の目を瞠った。
(ザーレン・ルードのために……か。自分は、死ぬ気だな。おそらく、こいつは私を倒した後は何のためらいもなく、己の喉を掻き切り果てるのだろう。……全く、何という忠実な獣か。そしてまた、何という純心さか――)
 しかし一方で、ユアンは頭上から打ち下ろされる刃先を、恐ろしいほど冷静に見つめていた。
 彼の右手がしなやかに動き、その細剣(レイピア)が少年の剣撃を見事にはね返した。