鳩の来る部屋 改
「友情だとか絆とか、言ってて恥ずかしくないですか? 先生」
わたしは、十年前に自分が言ったこのせりふを思い出す度に、恥ずかしくて堪らなくなる。なんと小学生らしく、無邪気だったことだろう。黙ってただ聞いていた方が、ずっと賢かったに違いないのに。先生がこの後なんと言ったのかは、もう憶えていない。わたしは先生のことを馬鹿にしていたわけではない。軽蔑していたわけでもない。話は面白かったし、スポーツ万能だったし、授業中にギターの弾き語りをしてくれたこともあった。決して嫌いではなかった。
今、先生はどうしているだろうか。六年生まで持ち上がりでわたし達を受け持って、その後別の小学校に移ったと聞いた。年賀状のやり取りも、卒業後二、三年はしていたけれど、それ以降は音信が途絶えて久しい。
先生は郁美が死んだ時、お通夜でも告別式でも泣いていた。郁美のママやパパに対する挨拶もままならないくらいだった。
「雪村さん……。野島さんが亡くなって、辛いと思うけど……」
先生は、郁美の告別式の日、わたしに教師らしい言葉をかけようとして、声を詰まらせていた。
「辛いと思うけど……。卒業まであと一年半……。ああ、俺もうどうしていいかわかんねえよお……!」
先生はハンカチに顔を埋めて、肩を震わせて泣き出してしまった。その隣で、頬に涙の跡の残るわたしが、ただ茫然と立ち尽くしていた。
お骨になった郁美は、びっくりするくらいに軽かった。もうあの綺麗な褐色の肌も、すらりと伸びた手足も、ぱっちりした目も、自信ありげに揺れるポニーテールも見られないのだと思うと、また急に悲しくなった。やっぱりわたしは、郁美のことが好きだったのかもしれなかった。
ぱたたっ、ぱたたっ。
雨の音で、ふと我に返る。時刻は午前三時二十四分。
急に喉の渇きを感じて、枕元に置いたペットボトルの水を取る。
雨足は段々強くなっている。朝までには止むだろうか。ごく、ごく、とわたしの喉が鳴る音が床に落ちる。
郁美が死んでから、わたしは雨が嫌いになった。わたしも郁美と同じように、雨に掻き消されてしまいそうで怖いのだ。だから十年経った今でも、雨の日はなるべく外出しないで家に閉じこもっている。どうしても出掛けなくてはならない時は、大きな傘を差して、絶対に濡れないようにして道を歩く。
わたしは未だに、郁美と「ニコイチ」なのかもしれない。ふとそんな考えが湧いて、わたしを身震いさせた。
***
結局雨は止まず、わたしは仕方なく傘を差して大学へ向かった。講義を三つ受け、一つさぼって、帰路についた。アスファルトの道路に、水たまりが幾つもあるのが不愉快だった。トラックが通り過ぎざまに、わたしのスカートに水を跳ね飛ばしていった。確か、郁美を撥ねたのも、あんな軽トラックだったと聞いている。わたしは軽トラックは、別に怖くはない。
「帰ったら、ランドセル置いて遊びに行くからねー!」
黄色い傘を差してピンクのランドセルを背負った女の子が、道路を挟んで向かい側にいる、水色の傘を差した赤いランドセルの女の子に向かって叫んでいる。
「じゃあ、またあとでー!」
水色傘の女の子も、そう叫び返して、角を曲がって行った。黄色傘の女の子は、そのまま真っ直ぐに歩き始める。
きっと、あの子達も、かつてのわたしと郁美と同じような、「仲良し」なのだろう。小学生にも携帯やインターネットが普及した今では、そのかたちは少し違うのかもしれないけれど。十年は、長いようで短く、短いようで長い。
それにしても、どうしてわたしは昨夜から郁美のことばかり思い出しているのだろう。郁美はもう死んでいるのに。
前を歩いていた黄色傘の女の子が、突然こちらを振り向いた。ぱっちりとした目、褐色の肌。
「郁美?」
口をついて出てきた名前に、はっとする。女の子は、びくっとしてわたしを見て、おもむろに走り出した。待って、と言いそうになって、思いとどまる。やっぱり、今日のわたしはどうかしている。
そういえば、もう随分と長い間、郁美のお墓参りにも、行っていない。郁美の家にお線香をあげにも行っていない。近いうちに訪ねてみようか。
アパートの自室に帰って実家に電話をかけると、タイミング良くママが出た。教職の単位が危ういだとか、この間変な顔の野良猫が歩いているのを見たとか、一通りの近況報告を済ませてから、本題に入った。
「ねえ、小学校の頃の名簿ってすぐ出るかな?」
「ちょっと探せば出てくると思うけど……、どうして?」
「野島郁美ちゃんの住所知りたくって。ほら、結構仲良かったけど事故で死んじゃった……」
電話の向こうからは、バラエティ番組の司会者のけたたましい笑い声がかすかに聞こえてくる。どういうわけか、ママは黙り込んでしまった。
わたしがもしもし、と言うと、ママは、んー、と、えー、の間くらいの音を出した。
「郁美ちゃんなんて子、ママ知らないわよ。だってあなた、小学校の時あんまりお友達いなかったじゃない」
「うそー。そんなはずないよ。だって、学校にも一緒に通ってたし、うちにだって何度も来てたじゃん」
「……あなた、何か思い違いしてない? 大丈夫?」
半ば混乱し始めた頭で、わたしはかろうじて、最短且つ最も確実な解決策を提示した。
「とりあえず、名簿見てみてくれる……?」
ママの記憶違いに決まっている。もう呆け、いや、アルツハイマーが始まったのだろうか。今幾つなのだっけ。なかなか鳴り終わらない保留音に苛立って、わたしは人差し指でテーブルをコツ、コツと叩く。
コツ、コツ。コツ、コツ。
ああ、鳩だ、鳩が来たんだ、とふと思った。
「お待たせ。やっぱりないわよ。……えっと、野田さんだったかしら?」
「野島郁美、だよ」
そんな馬鹿な、と、ああやっぱり、がない交ぜになったような、変な気持ちがした。
「うーん、やっぱりないわねえ。中学校のお友達と混ざってるんじゃないの?」
「んー、やっぱそうかも。ありがと、もう一回記憶を整理してみるね」
「そう? 何かあったらいつでも電話するのよ。こっちでできることはするから」
「うん、はーい、じゃあまた」
ママの、じゃあね、という声を聞いて電話を切った。
郁美。ママの記憶から消えた少女。先生は? 当時のクラスメイトはどうだろう。……だめだ、連絡先がわからない。もう一度ママに電話しても、ますますおかしくなったと思われるだけだ。
郁美がいなかったなんてことはありえない。
コツ、コツ、コツ、コツ。
毎日あんなに一緒にいて、喋って、笑って、触って、これ以上ないほどにお互いの存在を感じていたのに。
コツ、コツ、コツ、コツ。
漫画の貸し借りもしたし、授業中に手紙を回したこともあった。それなのに、それなのに郁美の痕跡を見つけることができない。わたしの記憶の中にしか見つからない。
コツ、コツ、コツ、コツ。
郁美の聞かせてくれた怪談話が脳裏によみがえる。窓の鍵が開いていないか、思わず確認してしまう。雨音が、怪しい物音を掻き消してしまいそうで、不安を煽る。
冷蔵庫から缶チューハイを取り出して、飲む。アルコールが運んでくる心地良い眠気。今わたしが最も必要としているものだ。
***