鳩の来る部屋 改
「ねえねえ、はーちゃん。夏だからさあ、怪談しようよー」
きらきらと光る、大きな黒い瞳。
「怪談?」
「そ、怖い話」
頷くと揺れる、ポニーテール。
「それはわかるけど、怖い話なんてできるの? っていうか、知ってるの?」
「できるよー。とっておきの知ってるから、聞かせてあげる!」
わたしの腕に絡みついてくる、細い、腕。
「郁美……」
汗ばんだ冷たい手がわたしの手首を握る。ぞくり、としてわたしは反射的に振り払おうとする。途端、郁美が叫んだ。
「なんで嫌がるの!」
「いや、やだ、いやだよ、やめてよ……」
「はーちゃん!」
目の前にある郁美の顔が怒りに歪んでいく。誰か、誰か助けて、そうだ、これは夢なんだから、早く覚めて!
ぎゅうっと、脳みそが凝縮されるような感覚があって、郁美が消えた。
今わたしは、自室のベッドに横になっている。怖いものは何もない。窓の鍵は閉めた。雨はもう止んでいる。すー、はー、すー、はー。呼吸を整える。一度起き上がろうと思ったけれど、体が言うことを聞かない。悪夢を見た時にはよくあることだ。久しぶりにあう金縛り。解けるまでじっと待つしかない。
そっと右手を握られた。お臍の下辺りからお腹、お腹から胸、胸から首筋にかけて、すぅっと撫でられていく。耳元では赤ちゃんの泣き声。いつものことだとは言え、馴れることはできそうにない。
突然、右手が強く締め付けられた。痛い、と言おうにも声が出ない、苦痛を表す術がない。優しく柔らかだった、私の手を握る何かは、いつの間にか、冷たく汗ばんだ手に変わっていた。
「はーちゃん」
耳元に温かい吐息がかかる。赤ちゃんの泣き声はいつの間にか止んでいる。
「逃げようとするなんてひどいよ。あたしははーちゃんが大好きなのに」
十年も経って、どうして。
「好きだよ、はーちゃん。はーちゃんがあたしのこと好きって言ってくれるまであたしはここにいるよ」
わたしはもう二十一で、郁美は……今となっては誰だかわからない少女は十歳のまま。わたしと彼女の使う「好き」という言葉の意味は、決して一致しないのだろう。わたしは男とごく普通の恋をして、ごく普通のセックスをした。彼女はまだ恋を知らない、セックスを知らない。
「ねえ、何か言ってよ!」
少女特有の高い声が耳に刺さる。
あなた、いったい誰なの。そう問いたくても声帯を震わすことができない。
「もう……、いいよ」
耳元の気配が消えた。冷たく汗ばんだ手もわたしの右手を解放した。それでもわたしの体は強張ったままだ。
す、す、すすす。
壁に沿って動くものがある。
すすすすすすすす。
壁を登って天井に到達したようだ。
すー、すー、すー、すー。
今度は天井を伝ってどこかへ向かっている。と、思ったら、ぴたり、と動きを止めた。
わたしにはもう、次に何が起こるかわかっていた。
ひゅっ、と空を切る音。
今ならはっきり言える。わたしは、郁美が嫌いだ。