鳩の来る部屋 改
生きている郁美の姿を見たのは、あの時が最後だった。
交通事故だった。
見えなかった、と運転手は言ったらしい。女の子は、雨の中からふっと現れて、気づいた時にはもうブレーキが間に合わなかったのだ、と。
嫌な予感が的中した、とわたしは思ったけれど、それを誰かに言うほど当時の私は幼くなかったし、馬鹿でもなかった。
こうしてわたしは、「親友」を亡くした。
郁美とわたしは、小さい頃からの仲良しだった。いつ、どうやって仲良くなったのか、もう覚えていない。小学校には一緒に通っていた。一緒にいすぎて、どっちが郁美ちゃんでどっちが華恵ちゃんかわからない、と言われたこともある。
授業で班分けする時も、体育の授業でチームを作る時も、休み時間にトイレに行くのも一緒。わたしたちは、そんなふうな、仲良しだった。
郁美とわたしのあの関係性はいったいどこから生まれたのだろう。決していわゆる同性愛的だとかそういう類のものではない。レズということばも知らないわけではなかったけれど、それは女と女が好きあうという意味で認識していたのであって、そもそもその頃、わたしたちはセックスを知らなかったし、愛にプラトニック以外のものがあるということは想像さえしていなかったのだ。
わたしたちが本当の意味での女の子だった時代(生理もまだなかった頃だ)の熱情は、執着は、どこから来てどこへ消えてしまったのだろう? 当時だって好きな男の子はいたけれど(クラスで一番スポーツのできる子だった)、その仄かな憧れの気持ちよりもっとずっと、べたついて、ぐじゃぐじゃした、醜くて悪臭を放っていたあの感情。毎日毎日顔を合わせて、喋って、笑って、はしゃいで、手をつないで、走って、そんな日常が永遠に続くとも思えたあの頃。いつも一緒にいるのが当たり前だった。わたしたちは、紛れもなく、この言葉はあまりにも陳腐で好きではないけれども、「ニコイチ」だった。
どうしてわたしはあの時、「嫌いじゃない」と答えたのだろう。もし、「好き」と言っていたら、郁美の顔いっぱいの笑顔が見られたかもしれないのに。あれから何度も何度も、思い出しては「もしも」が頭の中をぐるぐる回る。もしもあの時、無理にでも引き留めていたら、もしもあの時、傘を貸していたら。「もしも」のうちのいくつかは、たったひとつの「かもしれない」に辿り着く。
郁美は、死ななかったかもしれない。
郁美の死はわたしのせいではない、誰のせいでもない。けれど、郁美が、おそらく少しだけ、悲しんだのは、わたしのせいだ。
でもきっと、「嫌いじゃない」は、わたしが出すことのできた、本音と嘘を織り交ぜた、最良の答えだった。
わたしは郁美を少しだけ妬み、少しだけ憎んでいた。そしておそらく、少しだけ嫌いだった。
勝気な黒目がちの大きな瞳、褐色の綺麗な肌、すらりと細い手足。どこをとっても容姿の点でわたしは郁美に勝るところはなかった。郁美がうらやましかったし、妬ましかったけれど、当時のわたしは、そういった感情を抱くことを良しとしなかった。わたしは、クラスの学級代表をつとめるほどの、品行方正な優等生だったのだ。
五年生が始まってすぐ、確かあれは五月頃、郁美の運動靴の中に大量の画鋲が入れられたことがあった。幸いにして、怪我はしなかったけれど、郁美は相当のショックを受けたようだった。郁美は明るくて活発で、クラスでも目立つ存在だったから、味方と同じくらい、敵も多かった。
「誰がこんなことしたんだろ……。あたし、何か悪いことしたかなあ……?」
郁美は涙目になって、わたしに訴えた。
「こんなこと相談できるのはーちゃんだけだよう……」
相談を受けたわたしは、学級委員として取るべき行動を取った。担任の先生に、学級会でこの問題を取り上げてほしいと申し出たのだ。
「大丈夫だよ。これできっと解決するよ。画鋲入れた人もきっと名乗り出てくれて、仲直りできるよ」
「うん。ありがと、はーちゃん」
学級会は、毎週金曜日の一時間目にあった。
「今週の火曜日、野島さんの運動靴に画鋲が入れられるという事件があった。誰か、何か知っている人はいないかな? いたら手を挙げて」
先生の問いに、手を挙げる子は誰もいなかった。
「よしわかった。こうしよう。みんな机の上に顔を伏せて。やった人は正直に手を挙げなさい」
みんな一斉に顔を伏せた。先生の、顔を上げて、という声がするまで、誰も身じろぎもしなかった。顔を上げてから、どうでしたか、とわたしが目で問うと、先生は黙って首を小さく振った。
「誰も手を挙げた人はいなかった。もしかしたら別のクラスかもしれない。しかし、こういうことが起こるのは、クラスの、いや、学年全体の絆に関する問題だと先生は思う。犯人探しはしたくない。お互いに疑っても何もいいことはないと思うからだ。みんな、わかるね?」
みんながぱらぱらと、関心なさそうに頷いた。
「今日はここで終わりにする。もし、今名乗り出られなかったというのなら、あとからでもいい。こっそり言いに来てくれ。もしそうしてくれたら、その勇気を先生は認めようと思う」
いいね、と先生はなぜか満足そうに念を押した。
結局、その後も誰も名乗り出ず、郁美の画鋲事件は公式には未解決に終わった。公式には、というのは、わたしの中では最初からすでに自明となっていたからだ。
郁美の運動靴に画鋲を入れたのは、わたしだった。
悪意と呼べるほどの明確な感情があったわけではない。どちらかというと、好奇心だった。郁美がどんな顔をするか、わたしになんと言うか、それが気になって仕方がなかった。画鋲がケースの中で触れ合うじゃらじゃらという音、人に見られないように周囲を窺いながら、そっと運動靴の中に画鋲を入れる時の緊張感。リスクを冒してまでする価値があったのかと問われたら、わたしは何も言えない。だけれど、重要なのは価値だとかそういうものではないのだ。わたしがやってみたかったからやった。それがその時のわたしにとってのすべてだった。
学級会の日以来、郁美が画鋲事件について言及することはなかった。わたしは少しがっかりしたけれど、わざわざ自分からその話題を持ち出す気にはなれなかった。しばらくの間、郁美は沈んでいたけれど、一週間も経つと、また周囲に笑顔を見せるようになった。それを見て、先生は安心したようだった。
「雪村さん」
学級会が開かれてから、ちょうど一週間後の放課後、学級代表委員会の会議が終わって帰ろうとしたとき、先生に呼び止められた。
「野島さんのことだけど……、もう大丈夫なのかな?」
「そうですね、郁美はもうそんなに気にしてないみたいです」
「そうか」
「先生の方で、何か進展は?」
「残念だけど、何も。名乗り出てくれることを願うばかりだよ。やっぱり、こういうのは良くない。どこかしらに歪みが出ているってことなんだから」
先生は腕を組んで、うーん、と唸った。
「歪みが出てちゃ、だめなんですか?」
わたしが言うと、先生は、え、と驚いたように目を見開いて、
「そりゃあ、歪みがあっちゃあ、良くないだろう。クラスの中に不信とか、疑いとか、そういうものの種があったら、友情にも亀裂が入る。クラスの絆だって……」