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なつきすい
なつきすい
novelistID. 23066
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人生初修羅場

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 言った声がやや震え気味だったのに、自分で驚いた。多分気づいてないだろうけど。
「あ、はんちゃん、帰ってたんだな。ただいま」
 特にその声は変じゃない。いつも通り。なんともない。いつものように、鞄を置いて、靴を脱いでいる音がする。
 けれど。
「仕事長引いちゃってさ」
 その言葉はいつも通りであって、起こしかけた身体が凍りついたように動かなくなった。
 俺は知っている。仕事が長引いてなんていないことを。おそらくは定時からそう遅くはない時間に終わって、電気屋にいたことを。
「……どうかしたのか? 顔色、悪いぞ」
 俺の顔を見て近寄ってくる。返事できない。こういうとき、なんて言えばいいんだっけ。頭の中身がぐるぐると混ぜられているように、ふさわしい言葉が出てこない。
 荘一の足音が近づいてくる。一歩一歩。何か言わなければと思うのに口が開かない。
 手を伸ばしてくる。多分、熱を測ろうとしているんだと思う。その手を、俺は思わず振り払っていた。
 ばしん、と、思いのほか大きな音がした。
 荘一の目が大きく見開かれる。当然だ。多分俺も同じような顔をしている。こんなに強く手が出るなんて、思ってなくて。
「どうしてだよ」という言葉が、被った。その意味するところは違う。
「どうして、嘘つくんだよ」と「どうしていきなり叩くんだよ」。お互いに言い直して、どうして、だけがまた被った。
「……嘘?」
 三言目、やっと被らなかった言葉。
「仕事長引いたなんて嘘だろ。お前、さっき駅前の電気屋さんにいたろ」
 その瞬間の荘一の顔を、見なければよかったと思った。見間違いじゃなかった。あれは荘一だったのだ。
「何? 嘘ついた、理由」
 しまった、と、確かに顔に書いてあった。つまりは、やはり俺に見られたくない場面だったのだ。荘一が口ごもる。その間、何秒だっただろう。ここで顔を思い切りひっぱたければドラマのワンシーンかなにかのようであったのかもしれないが、やらなかった。手を払いのけるぐらいが、俺の暴力沙汰の精一杯のようだった。
 嫌な沈黙が流れた。どうしろっていうんだ。わからない。
 結局、俺は逃げた。それ以外にどうしていいか思いつかなかったからだ。後ろで荘一が追いかけてくる足音が聞こえた気がしたけれど、ほとんど動転していたにもかかわらず、俺は思考をせずとも、二つ掛けた鍵を外し、チャリで逃げていた。追いつかれるわけがなかった。
 
 
 
 三十分もしないうちに、俺は途方に暮れていた。生まれてこの方二十五年、初の家出だった。
 財布はある。限度額月十万円のクレジットカードもある。キャッシュカードもある。現金しか使えなかったとしても常に財布には万札を一枚は入れるようにしているから、泊まることも食べ物を調達することもできる。街中まで行けば、ビジネスホテルでもネカフェでもなんでもあるだろう。それは、わかってはいる。
 わからないのは、俺は今どうするべきか、ということだ。
 このままふらふらするのもどうにも落ち着かない。どういうわけか悪いことをしているような心持になってしまう。別に二十台も半ばを回ったいい大人が夜の街を歩いていたところで誰が咎めるものでもなかろうに。高校まで夜遊びのひとつもしたことがなく、大学や職場の飲み会もせいぜい二次会で、しかも終わったら直帰していたので、ひとりで目的もなく夜の街にいることすら初めてだった。荘一と付き合うまで恋人もいなかったし、勿論ナンパなんて怖くてしたことがないから、高校生の頃にこそこそと親に隠れて夜に家を出入りするような真似もしたことがない。荘一と付き合い始めてからは、まともな時間にさっさと帰るか、それより遅くなったらどちらかの家に泊まるかの二択だった。そんなことを思い出していたら、尚更心がずきりと痛んだ気がした。
 かといって、あんな風に飛び出してしまった手前、帰ることもできない。こんな夜中に彼氏と喧嘩したから、などというアホな理由で実家に帰って家族をたたき起こしてしまうわけにもいかない。だったらとりあえずビジネスホテルにでも入って明日まで寝て、そこから仕事に行くべきかとも思うのだが、寝付けるだろうか。それはそれで、明日以降どうしようかと思うと、まったく見通しが立たない。それに服なんて持たずに飛び出してきたけれど、さすがにパーカーにジーンズという格好で仕事に行くわけにもいかない。出勤前にどこかでワイシャツとパンツを調達できるだろうか。東京とかならあるのかもしれないが、こんな地方都市に二十四時間営業の服屋などない。コンビニかスーパーの衣料コーナーになければアウトだ。一応この街は東京の通勤圏で、頑張れば今から最終電車で東京に行って服を調達し、銭湯かどこかに寄った上で定刻通りに出勤できないこともない。こともない、けれど。
 どうしようもなく、手詰まりだった。一瞬じわりと視界が滲んだ気がして、慌てて左手で拭う。あまりにも、情けなかった。
 この年になってネオンサインの明るさを実感することになるなんて、予想もしていなかった。
 自転車を押しながら、酔っ払いだらけの街をとぼとぼと歩いた。明らかに意気消沈しているのが見た目にもわかるのか、カラオケのビラ配りには一向に捕まらないのに、綺麗な女性のいる類のお店の客引きに声をかけられ続けている。その適当なあしらい方もわからなくて、先ほどから何度「済みません」とだけ口にして逃げたものだろうか。街はこんな時間だというのにまだまだ賑やかで、調子っ外れの歌や、奇声と紙一重の笑い声、あるいは怒声までもが混ざり合っていて、なのに、自転車の車輪がゆっくりと回る音が、妙に耳につく気がした。
 今どこを歩いているのかすらよくわからない。それでも、車道に出ることはなく、信号も意識せずとも守れていた。
 こういうとき、どうしたらいいんだろう。学生時代の友達に、どういうわけか付き合う彼女付き合う彼女毎度毎度修羅場になるやつもいたっけか。所謂ヤンデレちゃんとうっかり付き合ってしまい、刃傷沙汰になったこともある。あいつならこういうときどうすればいいか知っているかもしれない。けれどこんな時間にこんなことで一年以上ぶりに電話を掛けるのも悪いし、恋人を紹介しろなんて言われたら困る。携帯の入っているジーンズのポケットに伸ばしかけた手を、自転車のハンドルへと戻した。
 修羅場女好きの奴といい違法風俗の奴といい、何気に俺の友達には、危なっかしい道にふらふらと引き寄せられていくタイプが多い気がする。麻雀でレートを上げすぎてしまい、一週間ほど姿を隠した奴や、短期のバイトで金を貯めてはヒマラヤに行ってしまうような奴もいた。もしかして、あいつらと友達だったことが、俺の人生で一番の危ない橋だったのではないだろうかと思ってしまうぐらいだ。そして間違ってもあいつらが遊びに行く先についていきたいとは思わなくても、その冒険譚を聞くのはとても楽しかった。だから俺は、あいつらと友達だったのかもしれない。
作品名:人生初修羅場 作家名:なつきすい