「忘れられない」 最終章 本当の始まり
最終章 本当の始まり
有紀は新潟に向かう電車に乗っていた。寒風が吹きすさぶ日本海を眺めながら時折ちらつく雪に遮られる風景に涙していた。「哀しみ本線日本海」という歌があったが、まさにその情景に今はピッタリだと感じていた。
乗り換えて鯨波で下車した。久しぶりに妙智寺へと続く道をコートの襟を立てながら歩く。駅から電話をしていたので、お嫁さんが庭先で待っていてくれた。
「ご苦労様です・・・寒かったでしょ、中に入って暖を取ってください」
「ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」
重徳はここのところの年齢から来る足腰の弱りなのか、お嫁さんに支えられながら有紀の待っている部屋にやって来た。
「お待たせしました。ご苦労じゃったのう・・・苦しかったろうな、察するとこの年寄りの胸を締め付けるわい。今はご冥福を祈って精一杯経をあげさせていただきましょう」
「ありがとうございます。厚かましく訪ねて参りましたことを、お許し下さい。私には今は重徳様にすがるしか生きて行けそうにございません」
「有紀さん、気持ちはよく分かりますが、望みを捨ててはなりませんぞ。この重徳が許しません。生きて愛した人の命の分まで長生きされることが、最大の供養になるのですぞ。解りますかな?」
「はい、友人にもそう言われました。有紀は弱い女です。愛する事を失った今、生きる意味を見出せません」
「困ったことよのう・・・そうじゃ、ここにお泊りなされて、わしと一緒に三日三晩の勤行をしましょう。気持ちが落ち着いたら自分のこれからを探りなされ」
「重徳様・・・本当に有紀は・・・有紀は生きていてよろしいのでしょうか」
「当たり前じゃ!死んで楽をする事はいつでも出来る。あなたの優しさとか純真な思いとかをこれからの人生に生かすようになされる事が良かろう。ボランティアでも介護でも重徳は良いと思いますぞ」
人の介護をする・・・有紀は全く考えていなかった。生きていることに悲観しているたくさんの老人を自分が救えるのなら、明雄もきっと喜んでくれるかもしれない・・・
しばらくして薄暗くなった拝殿に有紀は重徳の後を着いて歩いていった。肌寒い空気が流れる畳の上をすがりつくような思いで踏みしめる。重徳の後で正座をして、やがて始まった経に手を合わせ神経を集中させていった。年季の入ったしわがれた声が部屋に響く。時折「南無阿弥陀仏・・・」と繰り返しが来るので同じように唱えた。
全ての経を読み終えて、重徳は有紀の方を振り返り、
「どうじゃったかのう?少しは気持ちが落ち着かれましたか?」
「はい、ありがとうございます。心を無にして一身に耳を傾けておりました。救われてゆくような気がしております」
「それは、よかったですのう。明日の朝は早いですぞ。6時にここで経を読みますからのう」
「心得ました。有紀には辛くはございません」
「感心じゃ、では、先に寝るので失礼しますぞ」
「お休みなさいませ」
お嫁さんから、使っていない部屋に通され気が済むまで使って構わないと言われた。重徳があらかじめ頼んでいてくれたのだろう。有紀は改めてその仏心に感謝した。18歳の夏に友達二人とたった一日泊まっただけなのに、こうして親切にして頂いている自分はなんと恵まれているのだろう。明雄との出会いがなかったら、忘れ去られる場所だったのに。
昔とは違う新築されたユニットバスに浸からせてもらって、身体を温めていた有紀はふと誰かの声が聞こえたように感じた。耳を済ませて・・・それはかすかに聞こえると感じられる程度に、「ゆきちゃん、そっちはダメ。あきおくんは帰っちゃったから、もうさようならね」
「裕美さん!裕美さんの声ね。ねえ、どうして姿を見せてくれないの!ねえ、どうして・・・」見えるはずがない。そんな事解りきっている。しかしそう叫ばないといられない自分がそこに居た。さっと立って小窓を開けた。暗闇に一筋の光が見えたような気がした。気がしただけだ・・・「何をやっているんだろう、私は・・・」涙がこぼれて、両手で顔を押さえながら座り込んでしまった。
夢にしか現われなかった裕美が現実に現われたように感じた事は、何を意味しているのだろう。自分の辛さから逃れるための回避衝動なのか・・・妄想観念が始まるのはうつの初期現象だと言う。明雄の死から一月が経っている。ずっと悲しんで、考えて、苦しんで、泣いて過ごしてきたから、うつ状態であっても不思議ではない。見えないものが見えたり、見たいと思うものを感じたり、感じたくないものを遠ざけたり、普段の自分とは違う考え方や行動になって行くようだ。
「おはようございます」6時に有紀は重徳を待っていた。
「おはよう、よく眠れたかのう?」
「なんとか、疲れを残さずに済んでおります」
「そうか、では、始めるとしよう。般若心経は読めますかのう?」
「いえ・・・お恥ずかしゅうございますが、見させていただけないと読めません」
「では、これを・・・順番に読んで参りますから着いて来られるように」
「はい、承知しました」
鐘が鳴る。木魚が鳴る。
重徳の分厚い声に続けて有紀は声を出して読み始めた。ずっと読んでいると不思議に何も考えなくなる。30分ほどの時間で読み終えて、最後に「南無阿弥陀仏」を何度か繰り返して、鐘の音で終わった。重徳の何度か数珠をこする音がして頭を下げ、終わった。
「ご苦労さんじゃった。朝ごはんを戴くとしようか」
「はい、ありがとうございます。何もしないで泊めて頂いては、申し訳なく思います。何かお手伝いさせて下さいませんか?」
「ほう・・・では、嫁がやっていることを少し手伝ってくれますかのう」
「解りました。気が楽になります」
食事を済ませて有紀は後片付けと庭掃除を手伝った。午後には買い物に着いて行き、夕食の手伝いもした。そこは女どうし、時折世間話も交えて楽しい時間を過ごすことが出来た。真っ暗だった自分の心の中が少しずつ晴れてゆく。夕方から雪が降ってきた。今日は12月24日、世間はクリスマスイヴ。そうだ!裕美の命日・・・やはり昨日の声は裕美に違いない、思い出したように有紀は天を仰いだ。
「早いものね、もう一周忌・・・あなたのお陰で明雄さんに逢えたと言うのに、こんな事になってしまって・・・ごめんなさいね。運命って残酷ね。でもね、明雄さんに逢えなかったら、明雄さんの死も解らなかった訳だから、感謝しなきゃいけないのかも知れませんね・・・もう明雄さんと会ってるの?裕美さん?仲良くしてあげてね・・・寂しがりやさんだから。私が行くまでお世話お願いします。すぐに行くつもりだったけど、私にはやらなければならないことが、あるようなの。少し待っていて下さい。じゃあ、もう現われる事はないよね?さようなら・・・お別れじゃないけど、有紀を見守っていて頂戴ね」
気持ちがスーッと楽になった。
有紀は新潟に向かう電車に乗っていた。寒風が吹きすさぶ日本海を眺めながら時折ちらつく雪に遮られる風景に涙していた。「哀しみ本線日本海」という歌があったが、まさにその情景に今はピッタリだと感じていた。
乗り換えて鯨波で下車した。久しぶりに妙智寺へと続く道をコートの襟を立てながら歩く。駅から電話をしていたので、お嫁さんが庭先で待っていてくれた。
「ご苦労様です・・・寒かったでしょ、中に入って暖を取ってください」
「ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」
重徳はここのところの年齢から来る足腰の弱りなのか、お嫁さんに支えられながら有紀の待っている部屋にやって来た。
「お待たせしました。ご苦労じゃったのう・・・苦しかったろうな、察するとこの年寄りの胸を締め付けるわい。今はご冥福を祈って精一杯経をあげさせていただきましょう」
「ありがとうございます。厚かましく訪ねて参りましたことを、お許し下さい。私には今は重徳様にすがるしか生きて行けそうにございません」
「有紀さん、気持ちはよく分かりますが、望みを捨ててはなりませんぞ。この重徳が許しません。生きて愛した人の命の分まで長生きされることが、最大の供養になるのですぞ。解りますかな?」
「はい、友人にもそう言われました。有紀は弱い女です。愛する事を失った今、生きる意味を見出せません」
「困ったことよのう・・・そうじゃ、ここにお泊りなされて、わしと一緒に三日三晩の勤行をしましょう。気持ちが落ち着いたら自分のこれからを探りなされ」
「重徳様・・・本当に有紀は・・・有紀は生きていてよろしいのでしょうか」
「当たり前じゃ!死んで楽をする事はいつでも出来る。あなたの優しさとか純真な思いとかをこれからの人生に生かすようになされる事が良かろう。ボランティアでも介護でも重徳は良いと思いますぞ」
人の介護をする・・・有紀は全く考えていなかった。生きていることに悲観しているたくさんの老人を自分が救えるのなら、明雄もきっと喜んでくれるかもしれない・・・
しばらくして薄暗くなった拝殿に有紀は重徳の後を着いて歩いていった。肌寒い空気が流れる畳の上をすがりつくような思いで踏みしめる。重徳の後で正座をして、やがて始まった経に手を合わせ神経を集中させていった。年季の入ったしわがれた声が部屋に響く。時折「南無阿弥陀仏・・・」と繰り返しが来るので同じように唱えた。
全ての経を読み終えて、重徳は有紀の方を振り返り、
「どうじゃったかのう?少しは気持ちが落ち着かれましたか?」
「はい、ありがとうございます。心を無にして一身に耳を傾けておりました。救われてゆくような気がしております」
「それは、よかったですのう。明日の朝は早いですぞ。6時にここで経を読みますからのう」
「心得ました。有紀には辛くはございません」
「感心じゃ、では、先に寝るので失礼しますぞ」
「お休みなさいませ」
お嫁さんから、使っていない部屋に通され気が済むまで使って構わないと言われた。重徳があらかじめ頼んでいてくれたのだろう。有紀は改めてその仏心に感謝した。18歳の夏に友達二人とたった一日泊まっただけなのに、こうして親切にして頂いている自分はなんと恵まれているのだろう。明雄との出会いがなかったら、忘れ去られる場所だったのに。
昔とは違う新築されたユニットバスに浸からせてもらって、身体を温めていた有紀はふと誰かの声が聞こえたように感じた。耳を済ませて・・・それはかすかに聞こえると感じられる程度に、「ゆきちゃん、そっちはダメ。あきおくんは帰っちゃったから、もうさようならね」
「裕美さん!裕美さんの声ね。ねえ、どうして姿を見せてくれないの!ねえ、どうして・・・」見えるはずがない。そんな事解りきっている。しかしそう叫ばないといられない自分がそこに居た。さっと立って小窓を開けた。暗闇に一筋の光が見えたような気がした。気がしただけだ・・・「何をやっているんだろう、私は・・・」涙がこぼれて、両手で顔を押さえながら座り込んでしまった。
夢にしか現われなかった裕美が現実に現われたように感じた事は、何を意味しているのだろう。自分の辛さから逃れるための回避衝動なのか・・・妄想観念が始まるのはうつの初期現象だと言う。明雄の死から一月が経っている。ずっと悲しんで、考えて、苦しんで、泣いて過ごしてきたから、うつ状態であっても不思議ではない。見えないものが見えたり、見たいと思うものを感じたり、感じたくないものを遠ざけたり、普段の自分とは違う考え方や行動になって行くようだ。
「おはようございます」6時に有紀は重徳を待っていた。
「おはよう、よく眠れたかのう?」
「なんとか、疲れを残さずに済んでおります」
「そうか、では、始めるとしよう。般若心経は読めますかのう?」
「いえ・・・お恥ずかしゅうございますが、見させていただけないと読めません」
「では、これを・・・順番に読んで参りますから着いて来られるように」
「はい、承知しました」
鐘が鳴る。木魚が鳴る。
重徳の分厚い声に続けて有紀は声を出して読み始めた。ずっと読んでいると不思議に何も考えなくなる。30分ほどの時間で読み終えて、最後に「南無阿弥陀仏」を何度か繰り返して、鐘の音で終わった。重徳の何度か数珠をこする音がして頭を下げ、終わった。
「ご苦労さんじゃった。朝ごはんを戴くとしようか」
「はい、ありがとうございます。何もしないで泊めて頂いては、申し訳なく思います。何かお手伝いさせて下さいませんか?」
「ほう・・・では、嫁がやっていることを少し手伝ってくれますかのう」
「解りました。気が楽になります」
食事を済ませて有紀は後片付けと庭掃除を手伝った。午後には買い物に着いて行き、夕食の手伝いもした。そこは女どうし、時折世間話も交えて楽しい時間を過ごすことが出来た。真っ暗だった自分の心の中が少しずつ晴れてゆく。夕方から雪が降ってきた。今日は12月24日、世間はクリスマスイヴ。そうだ!裕美の命日・・・やはり昨日の声は裕美に違いない、思い出したように有紀は天を仰いだ。
「早いものね、もう一周忌・・・あなたのお陰で明雄さんに逢えたと言うのに、こんな事になってしまって・・・ごめんなさいね。運命って残酷ね。でもね、明雄さんに逢えなかったら、明雄さんの死も解らなかった訳だから、感謝しなきゃいけないのかも知れませんね・・・もう明雄さんと会ってるの?裕美さん?仲良くしてあげてね・・・寂しがりやさんだから。私が行くまでお世話お願いします。すぐに行くつもりだったけど、私にはやらなければならないことが、あるようなの。少し待っていて下さい。じゃあ、もう現われる事はないよね?さようなら・・・お別れじゃないけど、有紀を見守っていて頂戴ね」
気持ちがスーッと楽になった。
作品名:「忘れられない」 最終章 本当の始まり 作家名:てっしゅう