散花妖想
玄関から入ってすぐには小さな空間があり、普段加苅はそこで客の応対をしている。その奥にある襖で仕切られた部屋が、加苅たちのいる和室だ。さらに奥は加苅の居住空間となっている。
最初は客かと思ったのだが、足音が止まらないことからそうではないらしいことが分かる。加刈と椿が何事だろうかと顔を見合わせる間もなく、足音は二人がいる部屋の前で止まって、変わりに大きな声がした。
「加刈! いるんだろう!?」
騒々しさをそのまま勢いよく飛びこんできた足音の主は叫んだ。そして加苅を見て、そのまま隣の女を見て、固まった。
「つ……つ、つばき……」
まるで石像のようだ。
それは椿の方も同じで、魔法にでもかけられたかのように固まって目を見開いている。
「……か、かずまさ、さん」
椿は一回大きく息を吸った。動かない体を起動させるようにそうしてから言う。というより叫ぶ。
「どうしてここにいるの!?」
小柄な彼女から出たとは思えない大声に、加苅はぎょっとした。確かに付き合いは長いし、彼女が大声を出すところも何度か目にしている。だが、成人して「女性らしく」をそれなりに守っていた椿がこんな風に感情に任せて行動するところを久々に見たのだ。
それはやはり、本当に気を許している朝貝相手だからなのだろうなと思うと胸が苦しくなった。
「つ、椿、落ち着いて」
「加苅さんは黙っていて! ねぇ一雅さん、この時間はまだ仕事中よね!? どうしてここにいるのよ!?」
椿は肩を怒らせ、朝貝に詰め寄る。小柄な彼女が大柄な朝貝に突っかかっている姿はまるで兎が熊に立ち向かっているようで、一種の愛らしさを感じさせた。しかも熊の方が本気で萎れているので面白い。不謹慎ながら笑ってしまう。
「か、加苅! 笑うな、俺を助けろ!」
「加苅さんを巻き込まないの! きちんと説明して!」
熊は観念したように兎に謝った。そして話しだす。
今日、朝貝の仕事はいつもより早く終わった。そこで朝貝は加苅の元へ向かうことにした。久々に加苅とゆっくり話をしたかったし、椿が打掛を試着する日を教えてほしかったから。
店の扉を開け、中に入った朝貝だったが、加苅は入ってすぐの所にはいなかった。奥の部屋にいるのかと思った朝貝は、二人がいる四畳半の部屋の襖を遠慮なく開けた。そして今に至る――。
「……だからって勝手に襖を開けたら駄目でしょう」
椿のもっともな窘めに、朝貝は拗ねたように加苅を見た。
「いつもそうしているから……。なぁ加苅」
「それは直さなきゃ駄目! 加苅さんもちゃんと注意して! 私だったから良かったけれど、これが見ず知らずの若い娘さんだったりしたらどうするの!? 着替えをしている可能性だってあるのよ!?」
そう言われると返す言葉もない。男二人は素直に頭を下げた。
「ごめんなさい、おっしゃる通りです」
「分かればよろしい」
椿は仁王立ちでそう言った。そして観念したかのように溜め息をついて朝貝を見る。
「……こうなったらしょうがないわ。一雅さん、どう? あなたが見たがっていた打掛よ」
その言葉には照れくささが含まれていたが、嫌悪は含まれていなかった。
本当は椿も、朝貝に打掛姿を見せたかったに違いない。意地や羞恥が邪魔して素直になれなかっただけで。
照れくさいのかおざなりに裾を広げた椿に、朝貝は言い切った。
「綺麗だ」
そして、頬を先ほどの何倍も染めている椿に手を伸ばす。まるで脆いガラスにでも触れるようにそっと、優しく。
「本当に……綺麗だ。似合ってる」
朝貝は何かを抑えるようなくぐもった声で、綺麗だ綺麗だと繰り返す。
そんな彼に加苅は言う。
「いい着物だろう?」
「……あぁ。ありがとう、加苅」
声と同じく何かを抑えたように無理に笑い、朝貝は椿に向き合った。
「……椿」
「……はい」
「……好きだ。幸せにする。……ありがとう」
かろうじてそれだけ言って、朝貝はとうとう泣きだした。
「あぁもう、男でしょう? 泣かないの!」
そう慰める椿も泣いていた。泣きながら二人とも笑っていて、とても幸せそうだった。
加苅はそれを見つめながら思った。
自分も、幸せだと思えたら良かったのに。