短文(食)
「今日の晩ごはんはカレーだよ」
今朝方、寝ぼけていた俺に兄貴が言った一言だ。
俺はその一言で微睡みから脱し、現在進行形で戦闘準備を進めていた。
胃薬の所在をチェック、納戸の隅に仕舞い込んであった薬箱の中に発見。
ミネラルウォーターは昨日買い足したばかりで、冷蔵庫の野菜室にはリンゴの存在を確認している。
これだけあれば、多少のことなら大丈夫だろう。
さて、何故俺がここまで、たかがカレーごときに恐れ慄いているのかと思うだろう。
侮ってはならない。
彼は、俺の兄貴は、誰もが羨む完璧な兄だった。
成績優秀、眉目秀麗、兄貴にできないことはこの地球上に存在していないし、してはならない。
炊事、洗濯、掃除、どれも完璧にこなし、ご近所の奥様方の評判なんぞは、言わずもがなである。
だがしかし、全てにおいて完璧な俺の兄貴にも、一つだけ落とし穴があった。
マントルを貫いて地球の裏側まで行けそうな、深い深い落とし穴だった。
それが発覚したのはちょうど七日前、今日と同じ土曜日だった。
その日の晩飯は、本日予定されているものと同じカレーだった。
兄貴はその日、生まれて初めてカレーを作ったのだ。
もちろん、市販されているルーなんて使わない。
何事においても完璧を求める兄貴らしく、スパイス、食材、その他諸々凝った仕様のカレーだったらしい。
ここまで言えばもう分かるだろう。
常日頃から兄貴の群を抜いた料理の腕に馴れ親しんでいた俺は、何の疑いもなくそれを口にした、してしまった。
俺は生まれて初めて、核爆弾のような壮絶な味の物体を食べた。
もちろん核爆弾なんて危険物を食べた人類は俺も含めていないわけだが、それはもはや料理ではなく化学兵器だった。
脂汗と鼻水を垂れ流しながら、それでも完食した俺は、有史に残る英雄たちと肩を並べられると自負している。
「晩ごはんできたよ」
という兄貴の声を聞きながら、俺は戦場へ赴く戦士のごとく、最後の回想を終えた。