殺人は語学ができてからお願いします~VHS殺人事件~
プロローグ
あと、7分以内にここを出なきゃ。
そう時計を見て思ったのはついさっきだったと思うが、もう一度テレビの時計をまじまじと見ると、はっきりと8:43という文字が点滅している。つまり、数分以内に出なければ、ドイツ語のコースの初日早々遅刻するということだ。
だからといって、すっぴん同然で家を出ていいということにはならない。私は慌てて真っ黒なアイラインを2cm程度はあろうかというほどに引くと、さらに黒いアイシャドウを重ねづけ、鏡を確認した。信じられないほどアジア人顔の私は、こういう濃い化粧でもしないと、いまいちぱっとしないのだ。だから、誰に非難されようが、私はこの化粧法をやめるつもりはない。もっとも、別に誰にも非難されてはいないのだが。
私は振り返って8:45分という文字を視界に入れると、パンプスを足にひっかけて今度こそ部屋を飛び出た。鍵を開けるのももどかしく、自転車に飛び乗る。この時、この時間に家を出たならば、どんなに超人的なスピードで自転車を漕いだとしても、5分は遅れるだろうことは分かっていた。ああ、なんたる失態。
コースの初日がこんな風に始まったことからして、朝から既にいい気分とは程遠い状態だった。大体、まだ9月だというのに、なぜこんなに寒いのだろうか。街頭に設置されている温度計が8度という文字を点滅させているのを見て、私は悪態をついた。こんなことなら、薄いジャケットではなく、厚手の方にすればよかった。今更、何を言っても遅いが。
ここ、北ドイツのオランダの国境に近い人口16万人ほどの地方都市、オルデンブルクでは、全てが自転車で住む町である。逆に言えば、自転車がなければ死ぬほど不便な町でもある。もちろん、それは車がない人に限った話だが。車は全てを超越して便利である。言うまでもなく。
車を持っていない人にとっては、市内の交通機関は、バスと電車のみ。しかし、バスの本数はさほど多くないし、そもそもバス停に着くまでに10分ほど歩かなければならないという大きな矛盾がある。すると結局、家から目的地にダイレクトにいける自転車が便利ということになってしまう。例えば、今日みたいに、遅刻しそうな日でも。
自転車をたった15分漕ぐだけで、家から駅の真裏にある学校、つまり町の中心まで着いてしまうことで本来なら感謝すべきであって、30分や1時間電車に揺られる生活が当たり前だった都会での生活を考えれば、むしろ贅沢な話でもある。しかし、問題はそんなところではない。問題は、その自転車が、下宿の大家から無料で借りたというその性質上、大変古くてボロいということだ。
つまりどういうことかというと、ふつうは自転車というのは楽をして移動するためのものだが、なぜか妙に疲れる。それは自転車のあちこちが錆びていて、ランプが壊れていて、半分壊れているようなものなので通常の2分の1のスピードでのみ進むからである。
ポジティブな考え方をすればフィットネススタジオにいったような効果はあるかもしれないが、その徐行運転のために、猛スピードで通り過ぎていくドイツ人から邪魔だと言わんばかりに激しくベルを鳴らされるのは、あまり気分のいいものではない。もっとも、ほとんどのドイツ人はマウンテンバイクに乗っていて、私はドイツに来てまでママチャリに酷似したタイプの自転車を乗っているわけだから、そこからしてスピードが出ないことは自明なのだが。
それならば、自分で自転車ぐらい用意すればいいと考えることもできる。いや、きちんとした自転車を買おうとすれば安いものではないし、そもそも借りることができるならば文句を言わず、ありがたく使うべきではないか、お金は有限なものであるし。私はそう考えた。第一、新しい自転車を探しに行く、という作業が面倒だというのもある。
ともかく、そういうわけで大変のろのろとした運転の後、私はようやくオルデンブルク駅の裏にそびえ立つ、真新しい白い建物の前にたどり着いた。最近ここに移転されたばかりのこの建物は、一階にオシャレなカフェが併設されており、どこぞやのオフィスと見間違うほどきれいだ。
VHS(フォルクスホッホシューレ)という文字がきらめくその建物は、ドイツの各都市や自治体が経営するカルチャーセンター、いわゆる日本でいうところの公民館のような役割を果たしている。文化やスポーツなどの教養を学ぶコースのほとんどは地元市民向けに開講されていて、その一部、語学を学ぶセクションに外国人向けのコースも開講されている。
私立の語学学校に比べ、公立であることから授業料が格段に安いのがここの魅力なのだが、まぁ私も全く同じ理由でここに申し込んだ。いや、そもそも基本的にVHSを選ぶ人は、値段に惹かれてくる人しかいない。なので、おのずとクラスメイトも私立の語学学校に比べれば、リッチな生徒はいなくなる。自分も世界的にはお金があると思われている日本人ではあるもの、全くリッチではないのだから、VHSのコースに申し込んでいる時点で「あぁ、この人は値段で来たんだな」とか、そう思われたとしても、別に全然問題ない。
しかし、だ。それと変な格好で来たり、ダサい人だと思われたり、あるいは浮浪者寸前の格好で現れることとは全く別の話である。金があろうがなかろうが、それなりにスタイリッシュでいたいと思うのは、人間の本質的な願望じゃないだろうか?
本来なら、ここに優雅に歩みいり、トイレの鏡で髪が乱れていないかチェックしてから教室に向かう予定だった。たまに、走って来た場合、頭頂部の髪の毛がボサボサになっていて、それに気づかず2時間ほどを恥ずかしい状態で過ごすことがあるからだ。
トイレの方に一瞬視線を向けたものの、その視線を下げ腕の時計を見る。はっきり5分遅れている。一瞬迷ったものの、さらに教室到着が遅れることによる弊害を重要視した私は、トイレによるのを諦め、2階の教室目指して階段を駆け上がった。
そもそも、初日から遅れて教室に入ることなんて、私の当初の予定にはなかったことだ。私の初日の予定はこう決まっていた。時間に余裕をもって起き、髪をホットカーラーで巻き、メイクをばっちり済ませ、かわいいスタイリッシュな洋服を着、そして余裕をもって学校に到着する。そして、笑顔で、私の新しいクラスメイトに挨拶する。そして、新しいクラスメイトは、私に好印象を持つ。
しかし、そのどれも叶えられなかった。髪はもちろん巻く時間なんかなく、ただのストレートの髪をヘアースタイリング剤でいい加減になでつけただけだし、メイクは中途半端な出来で、洋服もクローゼットを開けて目についた無難な服を着ただけだし、第一今日は当初予定していたより、妙に寒かった。防寒を優先したら、むろんオシャレしている余裕なんぞなかった。
だが、どうも想定外というものは、一度その道に踏み入ってしまうと、もう引き返せないものらしい。
私はまさか、コースの初日に遅刻や洋服やメイクや、あと天気なんかよりももっととんでもない想定外に巻き込まれるなんて、全く想像もできなかったのである。
作品名:殺人は語学ができてからお願いします~VHS殺人事件~ 作家名:umi5