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だから彼が言った「すき」という言葉も、いつかは変わってしまうものだと、そう。思った。


次の日潤ちゃんは東京へ帰り、私は一人この町に取り残された。
それから彼を見ることは一切なくなって、私は数年後地元の中学校を卒業し、同じように地元にある数少ない高校の一つに通い始めた。そこで普通の高校生活を楽しみ、当たり前のように恋もした。
高校卒業後は家を出て都会に行きたいという憧れも持った。だが結局私には家を出ていく勇気も目標もなく、今は隣町の専門学校に通い、何気なく生きているのだ。
そんな、八年間。

潤ちゃんは私と別れたあの夏以降、誰かに恋をしたかな?聞きたいような、聞きたくないような、私はもどかしい気持ちで花火の光を見つめる。聞きたいことは沢山ある。
でもそれ以上に聞いてはいけないことも、あるわけで。

けれどその迷いを解くかのように出た潤ちゃんの次の言葉に、私は正直かなり驚かされるのだった。

「つぐみちゃんのこと、ちょっと聞いたよ」

主役の派手な花火たちが終わりかけた頃、潤ちゃんは少し躊躇いがちな様子で口火を切った。
私は首を傾げる。

「聞いたって、何を?」
「最近元気なかったって。つぐみちゃんのお母さんから色々聞いた」

それを聞いて、まさか、と思った。
潤ちゃんは一体何のことを言っているのだろう?
口の軽い母が言うような話だ。思い当たる節は数え切れないほどある。

「…何を、聞いたの?」
「………」
「…潤ちゃん」
「…つぐみちゃんの、好きだった人のこと」

ぽつりと言った潤ちゃんの顔は意外なほど穏やかだった。やっぱりあのことか、と、私は肩を落とす。
おしゃべりな母を今更恨むつもりもないが、あの話だけは潤ちゃんに聞かれたくなかった、のに。

吹き出していた花火が消える。まだ先端に熱を帯びている棒をバケツに放り込むと、ジュッという微かな音が水の中に消えていった。花火の光が消えた今、潤ちゃんの顔は暗闇でほとんど見えない。

「…線香花火」
「うん?」
「まだ残ってるから、やろ?」
「…うん」

私と潤ちゃんはお互いに線香花火を持った。手で囲いを作り、ライターの火をつける。その時ようやく潤ちゃんの顔が確認できた。潤ちゃんは穏やかな顔をしていて、それがどこか哀しそうに見えたのは、どうしてか…。



○●○



私が二十七歳の彼に恋をしたのは高校二年生の時だった。バイト先の社員である彼は本当に大人の男性、といった感じで、私の憧れの人でもあった。半年間の片思いと、一年弱の恋人関係。
思えばこれまでの私の生活の中で、彼はなくてはならない存在だったのだと思う。仕事の合間に会ったり、車で遠くへ出掛けたり。誕生日も、クリスマスも、私と彼はいつも一緒だったし、私は彼のことを本気で愛していた。高校生なりに、大人に近づけるように必死だった。けれど私が高校を卒業したその日、彼からかかってきた一本の電話で、すべてが消え去ってしまったのだ。
彼は電話で「卒業おめでとう」の言葉すら言わず、ただ一言こう告げた。
婚約者がいる、と。

四月から私はそのバイトを辞め、進学が決まっていた専門学校にも殆ど行かず、家の中で死んだように生き延びていた。まず始めたのが部屋の掃除だ。私の部屋は掃除をすればするほど彼との思い出の品が溢れてくる。いくら捨ててもそれらは発掘され続け、うんざりしてしまった私はついに部屋の中にあるもの全部を焼き捨てるという手段に出た。
ものが食べられなくなったのもその時からだ。何かを口にしようとすれば途端に吐気が込み上げ、無理矢理胃に詰込めば後になってもどすという悪循環が繰り返される。
私は狂ったように泣いた。そしてとうとう意識を失い、一ヶ月近くの病棟生活を強いられたのだった。



○●○




「心配してくれたのね、潤ちゃん」

私は線香花火の儚い光を見つめながら目を細める。潤ちゃんの優しさを今やっと理解することが出来たから。

「だから今日、花火にも誘ってくれたんだ?」
「…それは俺が単に花火したかっただけだよ」
「またまたぁ。照れちゃって」

ちりちりと微かな音を立てながら細い光の糸が宙を踊る。お互いの線香花火の堤燈は怒ったように膨れ上がり、まるで先に地面に落ちるものかと競い合っているみたいだ。
私は夜の空を仰いだ。私たちのすぐ上に座っている月は、長い雲の間を見え隠れしていて、今にも泣き出しそうな気がした。

「恋って、難しいのよ」

私がその台詞を吐くと本当に重々しい感じに聞こえてしまう。潤ちゃんは笑い飛ばしてくれればいい。そうして馬鹿だねって何事もなかったかのように振る舞ってくれればもっといい。
でも潤ちゃんは。哀しそうな表情を浮かべていた。

「どんな風に難しいの?」
「大人になればわかるよ」
「つぐみちゃんだって大人じゃないじゃん」
「私は大人よ」
「でもまだ十九歳だろ。十代じゃんか」

そんなのは形に拘っているだけの理屈にしかすぎない。
でもそれは私にも言えることだ。潤ちゃんを勝手に子供だと決めつけ、何も理解出来るはずがないと思い込んでいるのだから。私より年下だという形に拘り続けたまま。

「つぐみちゃんは昔から無理に大人ぶるよね」
「別に、無理なんかしてないよ」
「ううん、いつもそうだった。変なところで年上ってことを強調してさ。でもちっとも大人っぽくなかった」
「うるさいなあ…」

潤ちゃんと私は最後の一本になった線香花火に火をつける。

「私ももう、好きな人に素直に好きって言えるような歳じゃなくなったの」
「…どういうこと?」
「素直に好きだなんて言っちゃいけいない。時には退いたりすることも大事。恋の駆け引きってやつがあるのよ」

火がついたばかりの線香花火が激しく光を放っている。潤ちゃんの瞳に映り込むその光の玉がとても綺麗だ。

「なんか面倒くさそー…」
「だろうね」
「好きなら好きって言えばいいのに」
「大人はそれじゃ駄目なのよ」
「でも俺は俺だよ。駆け引きなんてしなくても、ちゃんと上手くやっていける」

それが出来ないんなら、大人になんてなりたくないよ。潤ちゃんはそう言って、麦藁帽子の鍔の下から少しだけ顔を覗かせる。
最後の花火はもう光をはじいていなかった。真っ赤な堤燈が地面に落ちそうで、落ちなくて。
この花火が消えたら、私たちの間を照らし出す明かりは完全に消滅して、木々の深緑に支配されるだろう。そして私たち自身も視界から消えてしまうのだ。

「つぐみちゃん」
「…なに?」

月はまだ雲に隠れたままだ。
潤ちゃんの声が風のざわめきに混じった時、ついに線香花火の終わりがやってくる。

「駆け引き、とか、俺たちには関係ないよね?」

え?と。私が顔を上げた瞬間、堤燈が地面にぽとりと落ちた。
明かりを失った二人の間に、静寂と闇が降りてくる。

「潤ちゃん?」

私は不安になって彼の名前を呼んだ。潤ちゃんがどこにも見えない。
思わず手を伸ばして潤ちゃんに触れようとすると、突然何かが勢いよく私にぶつかる。

「俺はずっと、つぐみちゃんが好きだったよ」

風が吹いた。震える私の体に絡み付いた腕。鈴の音。
潤ちゃんは私を強く抱き締めて、小さな声であの言葉を呟いた。


作品名:エンドロール 作家名:YOZAKURA NAO