エンドロール
そしてまた、私の嫌いなあの季節が始まる。
幻にも似た遠い夏の思い出。まだ、十一歳。
彼の麦藁帽子についた鈴の音が、頭の中で幻と複雑に交差する。
あの夏は果たして本当に実在したのだろうか、と、私は時々それがわからなくなるのだ。
けれど押し入れの奥から引っ張り出した夏休みの日記には、しっかりとあの夏の出来事が記されている。
幻なんかではなく、私の十一歳の夏は確かに存在していた。
彼は此処に居て、私と一緒にあの夏を生きていたのだ。
[ エ ン ド ロ ー ル ]
- Summer again like a phantom starts. -
あれから八年目の夏、隣人の次男が両親と共に帰郷したのを知ったのは、今日の夕方のことだった。
玄関先に現れたまだ少年と呼べるくらいの男の子。それがあの「潤ちゃん」だとわかるのに、私はだいぶ時間を費やしたと思う。
「本当に、潤ちゃん…?」
まるで宇宙人でも見ているかのような様子で話す私に、彼は楽しそうに笑って頷く。その笑顔は紛れもなく潤ちゃん本人だった。八年前に私とこの小さな田舎町を駆けまわった、あの。
「久しぶりだね、つぐみちゃん」
「ほんと、久しぶり。八年ぶりだよね」
「すっげ、もうそんなに経つんだー」
普段は東京の高校生として生活している潤ちゃん。その彼がこのド田舎に帰省したのは本当に久々のことだ。潤ちゃんは私より三つ年下の男の子で、彼の実家は私の家の隣だった。幼い頃はよく家族と一緒に帰省していた潤ちゃんだったが、八年前からそれは途絶え、仲の良かった私と会うこともすっかりなくなっていた。最後に会ったとき、彼は確か八歳だっただろうか。
「ねえつぐみちゃん。花火やらない?さっき買ってきたんだ」
潤ちゃんは片手に持っていた大量の花火を私に突き出して、えへへと無邪気な笑顔を浮かべる。
彼は昔と随分変わっていた。栗色の髪も、耳に光るピアスも。だけど潤ちゃんの頭の上に被さった麦藁帽子だけは、あの頃と同じ。少し小さいのか、頭に入りきれていないそれは、あの夏の間潤ちゃんが被っていたものに違いないだろう。
潤ちゃんの希望で花火は近くの神社でやることにした。
自転車に跨った潤ちゃんは、後ろに私を乗せて夕暮れ空の下を走り出す。蝉時雨が遠くの林から木魂し、夕陽の赤に滲んだ鳥が、夜を恐れるかのように啼いていた。
「なんで麦藁帽子なんて被ってるの?」
潤ちゃんの背中を眺めながら訊ねる。
砂利道を行く自転車が揺れるたびに、潤ちゃんの帽子の鈴がしゃらんと言う。
「さっきばあちゃんちの倉庫から見つけた」
「でももう夕方だよ?帽子を被ってる必要なんてないんじゃない」
「気に入ってるからいいの。それにこれがなかったら俺だって気づいてくれなかったでしょ、つぐみちゃん」
確かにそれは否定できない。
何もかもが変わってしまった潤ちゃんを、私はこの帽子なしで見分けることが果たして出来ただろうか。
「俺はつぐみちゃんだってすぐにわかったけどね」
「それ、私が全然変わってないって言いたいの?」
さあね、と、潤ちゃんは楽しそうに笑って、飛ばされそうになった麦藁帽子を片手で抑えた。
自転車は町の川に架かる赤い橋を進む。サワサワと音を立てて止めどなく流れていく川。幼い頃から、この橋の下の大きな岩に座って水に足を突っ込むのが二人とも好きだった。夕暮れになれば迫り来る山の陰に脅え、川の流れる音だけが妙に大きく響く。
あのひんやりとした水の感触に触れたのは潤ちゃんが居なくなった日で最後だ。潤ちゃんは半ズボンを捲り上げ、足をばたつかせながらキャッキャッと笑った。私は岩の上から笑う潤ちゃんを眺めてた。山の陰はもう私のすぐ後ろにまで迫っていたけれど、潤ちゃんはそれに気づいてはいなかった。
薄暗くなっていく川の囁きに逆らうように潤ちゃんの鈴の音は響いている。
しゃらん、しゃらん。それがあまりにも懐かしくて、私の胸は痛む。
「はい、到着」
潤ちゃんが自転車を止めたのは古い神社の石階段の前だった。階段を上りきり朽ちた鳥居を潜ると境内に着く。潤ちゃんは境内の石段に座って早速花火を広げた。
「どれからやろうか」
「いっぱいあるから迷うね」
「やっぱ線香花火は一番最後じゃん?」
「うん、じゃあ線香花火は取っておこう」
いつの間にか蝉時雨は止んで、代わりに夜の虫の涼しげな合唱が神社に降り注いでいる。
線香花火を丁寧に一本ずつ掻き集めた潤ちゃんの手。随分と大きくなったなと思った。彼の大きな手は私の知らない人の手、、、急にそんな気がして、私は淋しさとも呼べる感情を密かに感じてしまう。
「つぐみちゃん?やんないの?」
ふと見ると、潤ちゃんが私の顔を怪訝そうに眺めていた。
「やる、やるよ。っていうか潤ちゃん、両手に花火持って欲張りすぎ」
「だってこっちの方がぜってー綺麗だもん」
潤ちゃんは両手に持っていた花火に火をつけ、私も負けじと花火を掴んだ。無邪気な笑顔を浮かべている潤ちゃん。花火の光によって映し出されるその顔が、八年前に比べて幾分も格好良くなったと感じるのは、悔しいけれど認めざるおえない。
花火をやっている最中、潤ちゃんの麦藁帽子の鈴はずっと踊り続けていた。
その音を聞くたびに。私はあの夏のことばかりを、思い出してしまうのだ。
刹那の風が木々を揺らす。
不意に境内の隅にあった狐の像が私の記憶に笑いかけてきた。
潤ちゃんの鈴の音が、五年前のあの夏の幻と交差する。
「怖いの?」
夏休みの最後の日、此処で見た潤ちゃんは小さく震えていた。石段の上に座り込み、そこから動こうとしなかった潤ちゃん。私の質問に対して彼は怖くなんかないよと強がったけれど、祭られていた狐とは絶対に目を合わそうしないことから相当無理をしているのだということも私にはお見通しだった。
あの時、潤ちゃんを抱き締めてあげることが出来たならどんなに良かっただろう、と。私は時々胸が締め付けられる想いになる。十一歳だった私。震えていた潤ちゃんを抱き締めてあげることも出来なかった、愚かな私。
潤ちゃんが神社から離れようとしなかったのは、私と離れるのが辛かったからだと思う。此処に隠れていれば自分は東京に戻らなくてすむと潤ちゃんは思い込んでいたのだ。結局すぐに潤ちゃんのお父さんが迎えに来て、泣き喚く彼を無理矢理連れていってしまったけれど。
お父さんが連れ戻しに来る前、潤ちゃんは小さな声で私に言った。それは木々のざわめきに掻き消されてしまいそうなくらい小さな声だったけれど、彼は確かにこう言ったのだ。
「つぐみちゃんのことが、すきだよ」
辺りはもうすっかり夜になり、明かり一つない暗闇の中で聞いた彼の言葉が、今も私の頭の中でリピートされ続ける。本当は幻だったのかもしれない。闇に脅えていた潤ちゃんはあまりにも小さすぎた。
けれどそれよりも脅えていたのは私の方だ。私が怖かったのは、潤ちゃん自身。この町から去ってゆく彼をこのまま好きでいていいのかわからなくて、彼の言葉を黙って聞き流すことがあの時の私の選択だった。
潤ちゃんは幼すぎたのだ。
幻にも似た遠い夏の思い出。まだ、十一歳。
彼の麦藁帽子についた鈴の音が、頭の中で幻と複雑に交差する。
あの夏は果たして本当に実在したのだろうか、と、私は時々それがわからなくなるのだ。
けれど押し入れの奥から引っ張り出した夏休みの日記には、しっかりとあの夏の出来事が記されている。
幻なんかではなく、私の十一歳の夏は確かに存在していた。
彼は此処に居て、私と一緒にあの夏を生きていたのだ。
[ エ ン ド ロ ー ル ]
- Summer again like a phantom starts. -
あれから八年目の夏、隣人の次男が両親と共に帰郷したのを知ったのは、今日の夕方のことだった。
玄関先に現れたまだ少年と呼べるくらいの男の子。それがあの「潤ちゃん」だとわかるのに、私はだいぶ時間を費やしたと思う。
「本当に、潤ちゃん…?」
まるで宇宙人でも見ているかのような様子で話す私に、彼は楽しそうに笑って頷く。その笑顔は紛れもなく潤ちゃん本人だった。八年前に私とこの小さな田舎町を駆けまわった、あの。
「久しぶりだね、つぐみちゃん」
「ほんと、久しぶり。八年ぶりだよね」
「すっげ、もうそんなに経つんだー」
普段は東京の高校生として生活している潤ちゃん。その彼がこのド田舎に帰省したのは本当に久々のことだ。潤ちゃんは私より三つ年下の男の子で、彼の実家は私の家の隣だった。幼い頃はよく家族と一緒に帰省していた潤ちゃんだったが、八年前からそれは途絶え、仲の良かった私と会うこともすっかりなくなっていた。最後に会ったとき、彼は確か八歳だっただろうか。
「ねえつぐみちゃん。花火やらない?さっき買ってきたんだ」
潤ちゃんは片手に持っていた大量の花火を私に突き出して、えへへと無邪気な笑顔を浮かべる。
彼は昔と随分変わっていた。栗色の髪も、耳に光るピアスも。だけど潤ちゃんの頭の上に被さった麦藁帽子だけは、あの頃と同じ。少し小さいのか、頭に入りきれていないそれは、あの夏の間潤ちゃんが被っていたものに違いないだろう。
潤ちゃんの希望で花火は近くの神社でやることにした。
自転車に跨った潤ちゃんは、後ろに私を乗せて夕暮れ空の下を走り出す。蝉時雨が遠くの林から木魂し、夕陽の赤に滲んだ鳥が、夜を恐れるかのように啼いていた。
「なんで麦藁帽子なんて被ってるの?」
潤ちゃんの背中を眺めながら訊ねる。
砂利道を行く自転車が揺れるたびに、潤ちゃんの帽子の鈴がしゃらんと言う。
「さっきばあちゃんちの倉庫から見つけた」
「でももう夕方だよ?帽子を被ってる必要なんてないんじゃない」
「気に入ってるからいいの。それにこれがなかったら俺だって気づいてくれなかったでしょ、つぐみちゃん」
確かにそれは否定できない。
何もかもが変わってしまった潤ちゃんを、私はこの帽子なしで見分けることが果たして出来ただろうか。
「俺はつぐみちゃんだってすぐにわかったけどね」
「それ、私が全然変わってないって言いたいの?」
さあね、と、潤ちゃんは楽しそうに笑って、飛ばされそうになった麦藁帽子を片手で抑えた。
自転車は町の川に架かる赤い橋を進む。サワサワと音を立てて止めどなく流れていく川。幼い頃から、この橋の下の大きな岩に座って水に足を突っ込むのが二人とも好きだった。夕暮れになれば迫り来る山の陰に脅え、川の流れる音だけが妙に大きく響く。
あのひんやりとした水の感触に触れたのは潤ちゃんが居なくなった日で最後だ。潤ちゃんは半ズボンを捲り上げ、足をばたつかせながらキャッキャッと笑った。私は岩の上から笑う潤ちゃんを眺めてた。山の陰はもう私のすぐ後ろにまで迫っていたけれど、潤ちゃんはそれに気づいてはいなかった。
薄暗くなっていく川の囁きに逆らうように潤ちゃんの鈴の音は響いている。
しゃらん、しゃらん。それがあまりにも懐かしくて、私の胸は痛む。
「はい、到着」
潤ちゃんが自転車を止めたのは古い神社の石階段の前だった。階段を上りきり朽ちた鳥居を潜ると境内に着く。潤ちゃんは境内の石段に座って早速花火を広げた。
「どれからやろうか」
「いっぱいあるから迷うね」
「やっぱ線香花火は一番最後じゃん?」
「うん、じゃあ線香花火は取っておこう」
いつの間にか蝉時雨は止んで、代わりに夜の虫の涼しげな合唱が神社に降り注いでいる。
線香花火を丁寧に一本ずつ掻き集めた潤ちゃんの手。随分と大きくなったなと思った。彼の大きな手は私の知らない人の手、、、急にそんな気がして、私は淋しさとも呼べる感情を密かに感じてしまう。
「つぐみちゃん?やんないの?」
ふと見ると、潤ちゃんが私の顔を怪訝そうに眺めていた。
「やる、やるよ。っていうか潤ちゃん、両手に花火持って欲張りすぎ」
「だってこっちの方がぜってー綺麗だもん」
潤ちゃんは両手に持っていた花火に火をつけ、私も負けじと花火を掴んだ。無邪気な笑顔を浮かべている潤ちゃん。花火の光によって映し出されるその顔が、八年前に比べて幾分も格好良くなったと感じるのは、悔しいけれど認めざるおえない。
花火をやっている最中、潤ちゃんの麦藁帽子の鈴はずっと踊り続けていた。
その音を聞くたびに。私はあの夏のことばかりを、思い出してしまうのだ。
刹那の風が木々を揺らす。
不意に境内の隅にあった狐の像が私の記憶に笑いかけてきた。
潤ちゃんの鈴の音が、五年前のあの夏の幻と交差する。
「怖いの?」
夏休みの最後の日、此処で見た潤ちゃんは小さく震えていた。石段の上に座り込み、そこから動こうとしなかった潤ちゃん。私の質問に対して彼は怖くなんかないよと強がったけれど、祭られていた狐とは絶対に目を合わそうしないことから相当無理をしているのだということも私にはお見通しだった。
あの時、潤ちゃんを抱き締めてあげることが出来たならどんなに良かっただろう、と。私は時々胸が締め付けられる想いになる。十一歳だった私。震えていた潤ちゃんを抱き締めてあげることも出来なかった、愚かな私。
潤ちゃんが神社から離れようとしなかったのは、私と離れるのが辛かったからだと思う。此処に隠れていれば自分は東京に戻らなくてすむと潤ちゃんは思い込んでいたのだ。結局すぐに潤ちゃんのお父さんが迎えに来て、泣き喚く彼を無理矢理連れていってしまったけれど。
お父さんが連れ戻しに来る前、潤ちゃんは小さな声で私に言った。それは木々のざわめきに掻き消されてしまいそうなくらい小さな声だったけれど、彼は確かにこう言ったのだ。
「つぐみちゃんのことが、すきだよ」
辺りはもうすっかり夜になり、明かり一つない暗闇の中で聞いた彼の言葉が、今も私の頭の中でリピートされ続ける。本当は幻だったのかもしれない。闇に脅えていた潤ちゃんはあまりにも小さすぎた。
けれどそれよりも脅えていたのは私の方だ。私が怖かったのは、潤ちゃん自身。この町から去ってゆく彼をこのまま好きでいていいのかわからなくて、彼の言葉を黙って聞き流すことがあの時の私の選択だった。
潤ちゃんは幼すぎたのだ。
作品名:エンドロール 作家名:YOZAKURA NAO