ある黒猫の喪失
老犬は「楓」という名だった。若いころは秋の楓の葉のような、綺麗な橙の体毛で覆われていたらしい。今の薄茶色で年を感じさせる姿からは少し想像し難かった。
「紅葉の主役はなんといっても楓だよ」老犬が紅葉を好む理由には自分の名前もあるらしい。
この家の主は僕にも名前を付けた。主は僕がこの家を訪れるたびに「凛、また来たのかい?」と言った。僕にとっては数ある名前の一つでしかなかったし、老犬も僕のことを「凛」とは呼ばなかった。僕も老犬のことを「楓」とは呼ばなかった。僕とその老犬の間には名前は必要なかった。大切なことは、互いが色という概念を認識し理解していることであった。ただ、老犬はたまに「楓」と呼んでほしそうな素振りを見せていた。
その冬のはじめ、僕は久しぶりに赤い屋根の家へと向かった。風は吹いていなかったが、少し雪が降っていた。雪には積もる種類と積もらない種類がある。白い大きな塊の雪は、一晩も振り続ければ翌日には足が埋もれるほど積もってしまう。薄く透明な軽い雪は地面に落ちるとすぐに水となってしまい、あまり積もらない。その日は積もる種類の雪が降っていた。
庭に着くとガラス戸が開き、主が姿を見せた。
「凛、今日は寒いよ。中に入らないかい?」 主は僕に尋ねた。
僕はその問いに応じず、その場を動かなかった。
「そうかい。残念だ」主はそう言うと中に戻り、ツナを持って再び現れた。主の後ろから老犬が顔を見せていた。
「久しぶりじゃないか」老犬は言った。「もうこないのかと思っちまったよ」
「猫は気まぐれなもんだよ」
主はツナを置くと家の中へと帰っていった。
「わしの主は野良猫のことはあまり知らないんだ。食べ物を与えれば懐くものだと思っている。あんたはそうではないようだね」
「君の主には感謝してるよ。でもあの人は僕の主ではない」
「主にはそれがわからないようだ。まあいい。それより、今年は厳しい冬になりそうだな。もう体が凍えるほど寒い」
「友人の話だと、今年は暖冬みたいだよ」僕は茶トラから聞いたことを伝えた。
「こんなに寒いのにかい?もうわしも年を重ねすぎたのかな。体が冬に耐えられなくなってきたようだ」老犬は寂しそうに呟いた。
大粒の雪が足下へ次々と落ちていった。辺りは歩くと足あとがはっきりとできるくらいに雪が積もっていた。それほど寒くはなかったが、老犬はひどく震えていた。
「このままだと朝になると雪景色だな」僕は言った。
「あんたの真っ黒な姿は真っ白な雪の中でよく映えそうだね」老犬は言った。
僕がその科白を聞くのは三度目だったが、老犬は覚えていないようだった。久しぶりに会った老犬はどこか生気がなく、以前よりも小さく見えた。目も虚ろで視線は定まらず、視力も低下しているようだった。
「どこか体調でも悪いかい?」僕は尋ねた。
「最近は食欲もないし、散歩にも行っていない。もしかしたらわしは冬を越せないかもしれない」老犬が醸し出す弱々しい雰囲気と年老いた姿がその言葉に現実味を持たせた。
「だが、わしはもう一度紅葉を見てみたい。もう一度あの美しい景色を見てみたい」
「……」
僕は老犬にかける言葉を見つけることができなかった。伝わってきたのは死に対する覚悟と、色への執着だった。老犬にとっては色が生そのものだった。体力は衰え、視力は低下しても色への渇望は尽きることはなかった。死を予見しながらも、老犬の言葉からは絶望は感じられなかった。
「きっと次の紅葉も見られるよ」
僕はそう呟いたが、老犬の耳に届いたかわからなかった。
「今日はもう中に戻った方がいい。春になったらまた会おう」僕は言った。
既に雪は僕の足首あたりまで積もっていた。
「ああ、ありがとう」老犬はそう言うと、ゆっくりと家の奥へと姿を消した。
僕はその後ろ姿をしばらく見つめていた。老犬の姿が見えなくなると、主がガラス戸を閉めに現れた。
「またおいで」
主はそう言うとガラス戸を閉めた。
冬も終わりが近づくと、次第に晴れの日が増えてくる。気温が上がり、積もった雪が溶けて足下を濡らす。風は冷たく、まだ温かいとは到底言えなかったが、確実に春は近づいてきていた。僕が河川敷へと向かったのは晴れた日の昼頃だった。河川敷には桜が植えてある。桜の蕾は開花する素振りすら見せないが、それでも僕は春が近くなると河川敷へ向い、小さな蕾を見て期待を寄せた。
僕が河川敷に着くと、茶トラが退屈そうに川を眺めていた。
「来た来た」僕を見つけると、茶トラはそう呟いた。
「今年の春はもうすぐ来るらしいよ。冬があまり寒くなかったから、暖かくなるのも早いみたいだ」
「そうか、ありがとう。しばらくすれば桜の花が見られるよ」
「桜なんて俺にとっては他の木と大して変わんないよ」
色の見えない茶トラにとって桜はその程度の存在だった。
「あんたの友人、死んじまったらしいな」茶トラは唐突に言った。
「え……?」
「なんだ、知らなかったのかい?あの老犬だよ。赤い屋根の家の。あんたはあいつと仲がいいからもう知っているものだと思っていたよ」
「知らなかったよ。確かに具合は悪そうだったが……残念だ」
老犬の死は僕に大きな驚きをもたらさなかった。最後に会った時の光景は死を予感させるには十分だった。
「俺も他の猫から少し聞いたくらいだけどね。死んじまったのはつい最近らしい。もう年だったからな」茶トラは陽の出ている空を眩しそうに見上げながら言った。「庭に埋められみたいだから、気になるならあの家に行ってみるといいよ」
「ありがとう。後で行ってみるよ」僕は言った。
茶トラは軽く頷くと、まだ蕾の桜の下を通ってどこかへ行ってしまった。
僕はしばらくそこに佇み、大きな川を見つめていた。川は海のように大きな波を立てることはなかったが、それでも小さなうねりが下流へと向かって次々と流れていった。日の光は川面を射したが、その煌きは僕には見えなかった。青、あるいは深い緑であるべき川の色は、灰色にしか見えなくなった。
あのときに気づくべきだったのだ。僕にとって老犬を失うことは色を失うことと同義であった。老犬は「色という概念を共有できる存在がいなければ、見えていないのも同じ」と言っていた。僕はその概念を共有する友人を失ってしまった。僕が危惧していたのは老犬の命だけであった。だが老犬の喪失はその生命だけでなく、色そのものの喪失へと繋がりかけていた。白と黒の灰色の世界。夜の海の世界。その世界は色を手に入れた僕にとって恐怖の対象であり、老犬を失ったことで僕はそこへ足を踏み入れつつあった。
僕は色のある世界で生きていたい。意識を集中すると世界は少しずつ色を取り戻した。川から視線を外し足下を見ると、明るい緑の芝が生い茂っている。向こう岸には白い小さな犬を連れた人間が見える。遠くには赤茶色のレンガ造りの橋が見える。視界の色が完全に戻ると、僕はそれがすぐに失くなるものではないことを悟った。だが、時間の問題かもしれない。色という概念を共有する友を失ってしまったのだから。
日が落ち始め少し暗くなって来ると、僕は赤い屋根の家へと向かった。