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ある黒猫の喪失

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 赤い屋根の家は、ちょうど桜のある河川敷と海との間にあった。この町の家の中では大きい方で、庭にはみかんと柿の木が植えてある。みかんの木の隣にある犬小屋は長い間使われていなかった。縁側はなくガラス戸が庭に面していて、日の光を取り込めるようになっていた。とても大きなガラス戸で、中にはよく洗濯物が干してあった。老犬はその大きなガラス戸から差し込む日の光で体を温めるのが好きだった。晴れた日には日の下でうたた寝をしたが、冬の寒い日にはそこに近寄ることはなかった。老犬にはすきまから流れてくる冷たい空気が体にこたえた。

 僕が老犬と初めて会ったのは数年前の夏の終りだった。その家の人間は猫に食べ物をくれることを茶トラから聞き、夕方に家を訪れた。ガラス戸から中を伺うと、僕に気づいた主がツナを持って庭へと出てきた。
「黒猫か。君はここにくるのは初めてだね」
 他の猫も同じようにこの家に来ているらしかった。主はツナを地面に置くと、しばらく僕の様子を見てから、奥へと姿を消した。主が見えなくなると、僕はツナを食べ始めた。
「あんたも色が見えるのかい?」
 突然の声に驚き顔を上げると、開けっ放しのガラス戸から老犬が顔を出して興味深そうに僕を眺めていた。
「食事を続けてくれて構わない。色が見える猫に会うのは久しぶりでな。」
「どうして色が見えるとわかるんだい?」僕はツナを食べながら尋ねた。
「長年の勘だ。この年まで生きていればなんとなくわかるもんだよ」
  老犬の体は僕の四倍くらいあり、薄い茶色の体毛で覆われていた。目はしっかりとしていたが、綺麗とは言えない毛並みが年齢を感じさせた。
「確かに僕は色が見える。他にも色の見える猫を知ってるのかい?」僕はこの老犬にどことなく魅力を感じたので話を続けることにした。
「ああ。ずいぶんと昔の話で、もう死んじまったけどな。前に住んでいた町で出会ったよ。わしも色が見えるから、そいつとはよく話した」
「君も色が見えるのかい?」僕は色が見える犬の存在を知らず、心底驚いた。
「そうさ。色が見える犬も少なくてな、色の話ができる友人が欲しかったよ」
 老犬は落ち着いた低い声でゆっくりと話した。目の前にいるこの老犬は猫という生き物を理解しているようだった。
「わしはこの目でたくさんの色を見てきた。他の犬や猫たちとは見える世界が全く違う。赤や黄、緑といった概念をほとんどの犬や猫は理解できない。それが優越感でもあり、また寂しくもあった。あんたは他に色の見える猫を知らんのかい?」
「僕の周りにも色の見える猫はいないよ。噂で耳にしたことがあるくらいだ」だいぶ前に茶トラから色の見える猫の話を聞いたことがあるが、どこにいるかすら知らなかった。
「色が見えたって別にいいことはないですよ」
「そんなことはない。わしは色が見えるおかけでいい経験ができたよ」老犬の言葉は力強かった。
「一面に咲く向日葵は青い空から落ちた星のようだったし、北国では地平線まですべてが一面の雪景色だった。どこも素晴らしく感動的だったよ。わしは主にいろんな所へ連れて行ってもらった。主はわしが色を見ることできることを知っていたわけではない。ただ主は、景色そのものをわしと一緒に見たかったのだろう。あんたもせっかく色が見える体に生まれついたんだ。それを楽しんだらいいじゃないか」
「僕にとっては見えても見えなくても変わらないものさ」
「前に会った猫も同じ事を言っておったよ。またここに来るといい。色の素晴らしさを教えてあげるよ。ツナも食べられるしな」
 そう言うと老犬は僕を一瞥してからガラス戸を離れ、奥へと消えていった。僕は残りのツナを食べきると、奥の様子を少し伺ってから庭を離れた。僕が離れてしばらくしてからガラス戸が閉じられた音が聞こえた。
その夜、僕は海へと向かい、堤防からその景色を眺めた。空には雲はなかったが、月も星もなく闇そのものだ。海は空の闇を映し、そのうねりが恐怖を感じさせた。灰色の無機質なテトラポットは沖からの波を打ち消していた。夜の海は僕以外の猫や、あの老犬以外の犬が見ている色のない世界と同じだった。

 僕はそのまま堤防の上で寝てしまったようだ。日の光がまぶたを射した。目を開けると沖には数隻の白い船が見え、海は青く輝いてた。色は夜と違う世界を構成するために存在しているようだった。しばらく堤防から海を眺め、それから近くの公園へと向かった。公園には蛸を模した赤い大きな遊具と、深い緑のジャングルジムがあった。ジャングルジムは所々茶色に錆びていて、その付け根には黄色い蒲公英が咲いていた。僕はその日、見るものすべての色を意識して過ごした。夜になり色のない世界へ入ると、海へ戻り堤防で眠りについた。
次の日の夕方、僕は赤い屋根の家へと向かった。
「今日も来たのかい。ちょっと待っててよ」
 主は僕を見つけるとツナを持って現れた。ガラス戸を開け、一昨日と同じ場所にツナを置くと戸を閉めて家の中へと戻っていった。ツナは昨日のものよりも水気が少なかった。ツナを頬張っていると、ガラス戸がガチャガチャと大きな音を立てるのが聞こえた。どうやら老犬が前足と鼻を使ってガラス戸を無理矢理開けたらしい。
「この戸を開けるのも年々しんどくなってきたよ」老犬は少し息を切らしていた。「そのツナは一昨日の残りなんだ。ちょっと乾いているだろう?」
「それでも美味しかったよ」僕はツナを食べきると老犬に言った。
「あんたがここに来るのはまだ先だと思っていたよ。色の魅力に気づくには時間がかかるからな」
「君に言われて色を意識して過ごしてみたんだよ。すると少しだけ違う世界が見えてきてね。興味を持った」僕の言葉に嘘はなかった。
「色という概念を共有できる存在がいなければ、見えていないのも同じだからな。あんただけ色が見えていても意味がないんだよ。あんたに会えてわしもよかったよ」老犬は僕に出会えたことが心底嬉しかったようだ。
「君は何を見てきたんだい?」
「いくらでも話してあげるよ」

 それから僕は度々この老犬のもとを訪れた。決まって夕方くらいに赤い屋根の家へと向かい、柿とみかんの木がある庭に着くと主が食べ物を与えてくれた。ツナを出してくれることが多かったが、次第にドッグフードや魚の切れ端、生肉など色んなものを出してくれた。たまに野菜も出してくれたが、どうにも空腹が満たされなかった。老犬は僕が食事をしている間にたくさんの話を聞かせてくれた。老犬の一番のお気に入りは紅葉だった。山の中腹からの景色は何ものにも代え難く、死ぬ前にもう一度見てみたいと老犬は言っていた。
「紅、黄、橙の葉と、紅葉していない緑の葉、そして山肌と木の幹の茶という多数の色が混じり合い、かつ全く同じ色が存在しない。風が木の葉を揺らし、日の光が陰影を創りだす。絶景そのものだったよ。ただ、山にまで車で行かなきゃならんので、車酔いが酷かった」
  老犬の話は色に限らなかった。老犬は自分の名前を気に入っているようだった。
「我々のような飼い犬は主から頂いた名前を大切にするんだよ。猫たちはそうでもないようだが」老犬は軽いため息をついた。
作品名:ある黒猫の喪失 作家名:蓮川矢風