ある黒猫の喪失
僕は海と川に挟まれたこの小さな町が好きだった。だがもうここに居続けることはできない。僕は大切な存在を失ってしまった。
春になってもこの町はまだ少し寒かった。晴れた日は暖かい空気が町を包んだが、時折吹く風は冷たかった。
冷たい風と暖かい空気という矛盾した世界が僕には妙に居心地が良かった。
春になると僕は河川敷をよく散歩する。河川敷には桜が植えてあり、その花が彩る桃色の世界に僕は魅了された。
僕は夏が苦手だ。暑さに体力が奪われるし、セミの鳴き声が頭に響く。
日の光で熱せられたコンクリートは足の裏を火傷させる。道路はほとんどがコンクリートで覆われているので、夕方にならないと散歩ができなかった。日中でもコンクリートを普通に歩けるようになると、秋がすぐそこにあることを実感する。この町には山がないので、紅葉を見ることができない。いつか紅葉を見ることが僕の夢だった。
道端の木が枯れ、風は急激に冷たくなり、日が短くなる。この町の冬は毎日のように曇っている。空は見渡す限り灰色で、雲の切れ目もほとんどない。雪が降れば空だけでなく、見える景色がすべて濃い灰色になり、どんよりした重苦しい空気になる。積もることもあるが、それほど困ることはなかった。僕は雪の上を歩くことができるし、寒さにも強かった。晴れの日もたまにはあるが、そういう日は曇っている日よりもとても寒く、空気が体に突き刺さってくる。雪が積もっていれば日の光が雪に反射し、まさしく白銀世界となった。
僕には名前がいくつもあった。クロ、チビ、ミー。他にもあっただろうけど、覚える気もなかった。どれもこれも人間に勝手に付けられたもので、特に気に入った名前もなかった。仲間たちの中には、人間に付けられた名前を気に入った猫もいたし、自分で自分の名前をつけた猫もいた。僕のように名前を持たない猫もいたが、どちらかと言うと少数だった。茶トラも僕と同じように名前を持たない猫だった。
「今年は暖冬みたいだぞ」茶トラは言った。
秋が終わりに近づくと僕はしばしば海辺の堤防を散歩する。冬になると海には強い風が吹き、白い波がテトラポットを打ち付ける。寒さに強い僕でも冬に海辺を散歩するのはしんどいからだ。茶トラは僕が秋の終わりになるとここにくることを知っているので、わざわざ来てくれたのだ。
「それはよかった」
「ここ数年は寒い冬が続いていたからな。今年は少し楽になるだろうよ。雪が降らないってことはないだろうが、風の強い日は減るんじゃないかな」
「いつもありがとう。吹雪の日が減るといいね」
茶トラは僕と違ってとても友人の多い猫だった。この町の野良猫のほとんどは茶トラと友人だったし、飼い猫の友人も多かった。友人の多い猫にはたくさんの情報が集まってくる。明日の天気はどうなのか、どこに食べ物が落ちているか、どこに食べ物をくれる人間がいるか、人間の世界がどうなっているのか。茶トラはたくさんの猫から情報を集め、そして情報を必要としている猫に伝えた。茶トラはこの町の情報屋みたいな存在だった。情報をもらった猫はその礼として食べ物を茶トラに渡した。茶トラは決して自分から食べ物を要求しないが、それがこの町のルールであった。茶トラは自分で食べ物を探しまわる必要がなかったので、僕の一・五倍くらいの大きさがあった。
「先日、隣町へ行ってきたんだ」僕が隣町へ行ったのは秋が深くなった時期だった。
「へえ、めずらしい。何か用事でもあったのかい?」
「いや、散歩の足を少し延ばしただけなんだけさ。隣町にも君のように色んな情報を集めている猫がいたよ。もっとも、君よりはだいぶ痩せていたけどね」
「別に太っていたっていいじゃないか。人間じゃあるまいし。俺のような存在はどの町にもいるみたいだよ。猫ってのは他人と関わるのがあまり好きじゃないからな。仲介役が必要ってわけだよ」茶トラは自慢気に言った。「君みたいに季節の話が好きな猫はめずらしいけどな」
僕は季節の変わり目になると茶トラから次の季節の話を聞く。春の桜はいつ頃咲きそうか、梅雨が終り、夏が来るのはいつか。
「季節の話はあまりするやつがいないんだよ。みんな暑さと寒さくらいしか興味がないからさ」茶トラは季節の話になるとよく文句を言う。
「すまない」僕はとりあえず謝った。
「野良は季節の話なんかほとんど知らないから飼い猫に聞くんだよ。でも飼い猫のやつらは俺の情報なんか必要ないからな。上から目線で話してきやがる。やつらだって人 間の会話から聞いただけだろうに。猫のくせに人間に飼われやがって」
茶トラは飼い猫が嫌いだった。猫は外で自由に生きるものというのが、彼の信念だった。
「まあ落ち着けよ。彼らだって好きに飼い猫になったわけじゃない」
「おっと、すまない。飼い猫の事になるとつい、な。それはそうと君は何でそんなに季節に興味があるんだい?」
茶トラは少し忘れっぽいところがあった。僕はこの話を過去に何度かした記憶がある。彼は多くの猫から情報をもらうため、関心がないことは覚えられないのだろう。
「色が見えるんだ」
「ああ、そうだったそうだった。いつも忘れちまう」
僕は特殊な猫だ。ほとんどの猫は白と黒と灰色の世界で生きているが、僕の目には様々な色が目に入ってくる。この町では色の見える猫は僕しかいない。茶トラは色を見ることができないが、僕のために季節の話を集めてきてくれる。
「夏の水色の空と大きな白い入道雲、冬の一面の雪景色はとても美しいよ。いつかは紅葉が見たいと思っている」
「俺にはよくわからねえな」
「生まれつきだからね。仕方ないさ」
色の美しさ、素晴らしさ、残酷さを伝えることは困難だった。
「ところで」茶トラは急に真面目な顔つきになった。「まだあいつとは付き合っているのかい?」
「もちろんだよ。僕には君と彼しか友人がいないんだから。」
「そうか。でも悪いことは言わないからあんまりあいつ、いや、あいつらと付き合うのはやめときな。おれらとあいつらじゃ根本から違うんだから。野良の中であいつらと仲いい猫なんて、あんたぐらいだよ」
確かに僕と彼らは全く違う生き物だ。
「僕はあの老犬と親しいだけだよ。他の犬には興味がないさ」
「老犬でも、犬と親しくなるなんて変わりものだよ。あいつらすぐ吠えきやがる。でも、あの老犬はもう吠える元気もないみたいじゃないか。最近は散歩しているのも見かけないぞ」
「最近彼には会っていないんだ。もう長くないかも知れないな。明日にでも会いに行ってみるよ」
「あいつが死んだら、犬と親しくなるのはもう止めときな。おっと、そろそろ行かなきゃな。夜になる前に三毛のやつのとこ行かなきゃならないんだ。またな」
茶トラが堤防を去ると辺りには僕の他には誰もいなくなり、波の音だけが響いていた。沈みかけている夕日は暑い曇の合間にうっすらとしか見えず、美しい夕日とは言えなかった。
春になってもこの町はまだ少し寒かった。晴れた日は暖かい空気が町を包んだが、時折吹く風は冷たかった。
冷たい風と暖かい空気という矛盾した世界が僕には妙に居心地が良かった。
春になると僕は河川敷をよく散歩する。河川敷には桜が植えてあり、その花が彩る桃色の世界に僕は魅了された。
僕は夏が苦手だ。暑さに体力が奪われるし、セミの鳴き声が頭に響く。
日の光で熱せられたコンクリートは足の裏を火傷させる。道路はほとんどがコンクリートで覆われているので、夕方にならないと散歩ができなかった。日中でもコンクリートを普通に歩けるようになると、秋がすぐそこにあることを実感する。この町には山がないので、紅葉を見ることができない。いつか紅葉を見ることが僕の夢だった。
道端の木が枯れ、風は急激に冷たくなり、日が短くなる。この町の冬は毎日のように曇っている。空は見渡す限り灰色で、雲の切れ目もほとんどない。雪が降れば空だけでなく、見える景色がすべて濃い灰色になり、どんよりした重苦しい空気になる。積もることもあるが、それほど困ることはなかった。僕は雪の上を歩くことができるし、寒さにも強かった。晴れの日もたまにはあるが、そういう日は曇っている日よりもとても寒く、空気が体に突き刺さってくる。雪が積もっていれば日の光が雪に反射し、まさしく白銀世界となった。
僕には名前がいくつもあった。クロ、チビ、ミー。他にもあっただろうけど、覚える気もなかった。どれもこれも人間に勝手に付けられたもので、特に気に入った名前もなかった。仲間たちの中には、人間に付けられた名前を気に入った猫もいたし、自分で自分の名前をつけた猫もいた。僕のように名前を持たない猫もいたが、どちらかと言うと少数だった。茶トラも僕と同じように名前を持たない猫だった。
「今年は暖冬みたいだぞ」茶トラは言った。
秋が終わりに近づくと僕はしばしば海辺の堤防を散歩する。冬になると海には強い風が吹き、白い波がテトラポットを打ち付ける。寒さに強い僕でも冬に海辺を散歩するのはしんどいからだ。茶トラは僕が秋の終わりになるとここにくることを知っているので、わざわざ来てくれたのだ。
「それはよかった」
「ここ数年は寒い冬が続いていたからな。今年は少し楽になるだろうよ。雪が降らないってことはないだろうが、風の強い日は減るんじゃないかな」
「いつもありがとう。吹雪の日が減るといいね」
茶トラは僕と違ってとても友人の多い猫だった。この町の野良猫のほとんどは茶トラと友人だったし、飼い猫の友人も多かった。友人の多い猫にはたくさんの情報が集まってくる。明日の天気はどうなのか、どこに食べ物が落ちているか、どこに食べ物をくれる人間がいるか、人間の世界がどうなっているのか。茶トラはたくさんの猫から情報を集め、そして情報を必要としている猫に伝えた。茶トラはこの町の情報屋みたいな存在だった。情報をもらった猫はその礼として食べ物を茶トラに渡した。茶トラは決して自分から食べ物を要求しないが、それがこの町のルールであった。茶トラは自分で食べ物を探しまわる必要がなかったので、僕の一・五倍くらいの大きさがあった。
「先日、隣町へ行ってきたんだ」僕が隣町へ行ったのは秋が深くなった時期だった。
「へえ、めずらしい。何か用事でもあったのかい?」
「いや、散歩の足を少し延ばしただけなんだけさ。隣町にも君のように色んな情報を集めている猫がいたよ。もっとも、君よりはだいぶ痩せていたけどね」
「別に太っていたっていいじゃないか。人間じゃあるまいし。俺のような存在はどの町にもいるみたいだよ。猫ってのは他人と関わるのがあまり好きじゃないからな。仲介役が必要ってわけだよ」茶トラは自慢気に言った。「君みたいに季節の話が好きな猫はめずらしいけどな」
僕は季節の変わり目になると茶トラから次の季節の話を聞く。春の桜はいつ頃咲きそうか、梅雨が終り、夏が来るのはいつか。
「季節の話はあまりするやつがいないんだよ。みんな暑さと寒さくらいしか興味がないからさ」茶トラは季節の話になるとよく文句を言う。
「すまない」僕はとりあえず謝った。
「野良は季節の話なんかほとんど知らないから飼い猫に聞くんだよ。でも飼い猫のやつらは俺の情報なんか必要ないからな。上から目線で話してきやがる。やつらだって人 間の会話から聞いただけだろうに。猫のくせに人間に飼われやがって」
茶トラは飼い猫が嫌いだった。猫は外で自由に生きるものというのが、彼の信念だった。
「まあ落ち着けよ。彼らだって好きに飼い猫になったわけじゃない」
「おっと、すまない。飼い猫の事になるとつい、な。それはそうと君は何でそんなに季節に興味があるんだい?」
茶トラは少し忘れっぽいところがあった。僕はこの話を過去に何度かした記憶がある。彼は多くの猫から情報をもらうため、関心がないことは覚えられないのだろう。
「色が見えるんだ」
「ああ、そうだったそうだった。いつも忘れちまう」
僕は特殊な猫だ。ほとんどの猫は白と黒と灰色の世界で生きているが、僕の目には様々な色が目に入ってくる。この町では色の見える猫は僕しかいない。茶トラは色を見ることができないが、僕のために季節の話を集めてきてくれる。
「夏の水色の空と大きな白い入道雲、冬の一面の雪景色はとても美しいよ。いつかは紅葉が見たいと思っている」
「俺にはよくわからねえな」
「生まれつきだからね。仕方ないさ」
色の美しさ、素晴らしさ、残酷さを伝えることは困難だった。
「ところで」茶トラは急に真面目な顔つきになった。「まだあいつとは付き合っているのかい?」
「もちろんだよ。僕には君と彼しか友人がいないんだから。」
「そうか。でも悪いことは言わないからあんまりあいつ、いや、あいつらと付き合うのはやめときな。おれらとあいつらじゃ根本から違うんだから。野良の中であいつらと仲いい猫なんて、あんたぐらいだよ」
確かに僕と彼らは全く違う生き物だ。
「僕はあの老犬と親しいだけだよ。他の犬には興味がないさ」
「老犬でも、犬と親しくなるなんて変わりものだよ。あいつらすぐ吠えきやがる。でも、あの老犬はもう吠える元気もないみたいじゃないか。最近は散歩しているのも見かけないぞ」
「最近彼には会っていないんだ。もう長くないかも知れないな。明日にでも会いに行ってみるよ」
「あいつが死んだら、犬と親しくなるのはもう止めときな。おっと、そろそろ行かなきゃな。夜になる前に三毛のやつのとこ行かなきゃならないんだ。またな」
茶トラが堤防を去ると辺りには僕の他には誰もいなくなり、波の音だけが響いていた。沈みかけている夕日は暑い曇の合間にうっすらとしか見えず、美しい夕日とは言えなかった。