柊生さんとぼく
月が高い。夜風がさっき部屋にいたとき以上に冷たく僕に当たる。
春先とはいえ冬の名残を残したような夜だった。上着の襟をあわせて少しでも風をしのごうとしてみたが、あまり効果はあがらなかった。
織也さんご所望の煙草を買うために、僕は人気のない夜道を歩いている……なんで僕が。もう一度言っておく。
……なんで僕が?
玄関で靴を履いているときに、確実にまだ起きているであろうディートに買いに行かせれば済む話―――というか、奴が携帯している煙草を分けろと一言いえば済む話―――じゃないか、と思ったが結局出てきてしまった。
我侭でしつこい織也さんの相手をするのが面倒だったのもあるが、大部分は先刻曲がり角に消えた柊生さんのことが妙に気にかかったのだ。もちろん追いかけようなどという大胆なことは考えていないが、ひょっとしたら運よく出会うことがあるかもしれないから。
しかし万一出会ったところで僕は彼女に何を言うんだ。またしどろもどろで変なことを言って、冷たくあしらわれるだけなのが目に見えている。
まぁ……そんなほとんどゼロみたいな可能性を憂慮して暗い気持ちになっている場合ではない。
確かに今までの被害者が女の子だからとはいえ、夜道は危ないことに変わりないのだから気をつけなければ。
なんてことをつらつら考えているうちに、自販機が見えてきた。神津御殿の裏の、僕の部屋から見えるあの小道を通って少し離れた場所にぽつねんと一人寂しく存在している自販機。ここは住宅街とも寂れた商店街とも呼びがたい雑居地だ。夜だから人気はまったくない。猫の子一匹いない。誰かに見咎められることはなく、僕は織也さん御用達の銘柄の煙草を買うことができた。
だからなんで僕が、僕のお金で、僕が吸うわけじゃない煙草を買っているんだ。しかも僕も織也さんも未成年だぞ。
ガラン、と無愛想な音とともに吐き出された煙草を拾って、上着のポケットへねじ込む。不満たらたらだがとりあえず任務完了。今日はもうこれを渡して織也さんを追い返したらさっさと寝よう。明日も学校があって早いんだから。たしか明日は一時間目から理科だったな。理科の教師は居眠りしていてもそっとしておいてくれるタイプだったか。かれこれ1年ほど同じ教師に理科を習っているはずなのだが、いまいち顔も思い出せない。どうにもそこだけ記憶がすっぽり抜け落ちてしまったような理科教師の顔を思い出そうと脳細胞に叱咤激励しながら自販機の前で回れ右をして、もと来た道に足を向けた。
そのとき。
ぐちゃっ。
背後から。
べちゃっ。
汁気のあるものが、潰れるような。
ぬちゃっ。
そんな音が、聞こえた気がした。
それを意識した瞬間、それまでただの暗さだった闇が不安へ変化して四方八方から僕の四肢に食らいついた。背筋を目に見えない冷たい手で撫でられたようだった。金縛りにあったように足が凍りつく。
無意識に呼吸を殺せば、音は先刻より明瞭に耳に届くような気がした。
どうやら、僕の背後のもうひとつ先の曲がり角から聞こえてくるらしい。
このまま逃げるか、それとも。
……まさか、ね。
そんな偶然あるはずがない。あったとしたら僕はなんて運の悪い男なんだ。いや、ある意味では運がいいともいえるのか。
―――殺人現場に居合わせるなんて、宝くじが当たるよりも雷に打ち抜かれるよりも低確率じゃないか。
そんな低確率の当たりくじを僕が引いてしまうはずがない。そんな貧乏な当たりくじを引くほど悪いことをした覚えはない。……いや、未成年の喫煙はそこまで悪いことだったのか。
がちがちに凍ってしまった首を無理に捻った。
振り向いた瞬間得体の知れない化け物に頭から食い尽くされるという妄想に襲われたが、それは所詮僕の脳内のことだった。
背後にはなにもなかった。ただ自販機の無機質な光と月の死んだような光が注ぐ道が広がっているだけ。左右は連綿と古ぼけた住宅が軒を連ね、その間をぽつぽつと思い出したように今にも傾きそうな商店がシャッターを硬く閉ざし埋めている。
その、安穏とした夜道の、ここから数えてひとつ先の曲がり角。
ごくりと唾を飲む。振り返った以上は行かねばならないだろうという妙な強迫観念があって、僕の体はすぐにここを離れろという脳の命令を無視して一八〇度方向転換した。心が頭に勝てるなんて初耳だぞ、おい。
僕はたぶんぎくしゃくした動きで歩き出した。
音はこの間も続いている。断続的に、確実に。
次第に縮まる距離、比例して詰まる呼吸。
あと数メートル、後十歩、後五歩、後二歩、後―――後は、もうない。
闇の中で鼻腔を強く刺激された。
僕はこの臭いをよく知っている。生臭くて暖かい死にたての生き物の臭い。否が応でも、子供の頃の嫌な記憶を呼び覚まされる。あの人もこの臭いの中にいた。
不意に頭痛がした。
目が回りそうになる、勝手に動いた眼球が、大きな月を捉えた。
先刻まであんなに空高く輝いていたくせに、なんだ、落ちてくるのか。
そして月の落下地点には―――彼女が。
その足下に完膚なきまで壊れた人間を跪かせ、その矮躯に圧倒的な死の恐怖を従えて。
「ねぇ、見てた?」
―――柊生令が、そこにいる。
歌うような声音。発言の主導権は彼女が優雅に手繰り寄せてしまった。
無感動に発された言葉だけが月明かりの世界に響く。
美しいばかりの世界を汚すのが怖くて、ただ首を横に振った。僕は異物でしかない。今この瞬間が世界中の何より価値ある名画なら、僕はそこに過失で垂らされた一点の黒い染みだ。名画を汚す自分の存在を憎まずにはいられない。
ふぅん、とやはり歌うような声を発して、絵画の中の少女が動いた。きらりと手の中の凶悪な銀が、月明かりを反射して煌いている。小さな足で踏みつけたかつて人間を形成していたものを、彼女は事務的に蹴り転がす。
ごろごろと転がっていく首は、サッカーボールの如く塀に当たって弱弱しく跳ね返った。
切り刻まれた顔は男か女か判別できない。おまけのように横たわる体が纏う布の残骸のおかげで、やっとそれを彼女と呼ぶことが出来るほどに。
「君が、やったの?」
ため息をつくように僕は震える声を発した。
青白い美しい世界に染みが広がる。言い知れぬ罪悪感に眩暈がする。
「さぁ……どうだろう」
私が殺したと思う?
その問いかけは誰に向かって発されたのだろう。
僕などには目もくれず、慈悲の色を湛えた瞳で損壊した肉塊を注視している彼女。長い黒髪が血の赤く散った白い頬にかかっているのが、妙に色っぽい。
「ねぇ、殺してあげようか」
滑らかな動きで彼女はこちらを振り向く。悪戯を思いついた子供のように楽しげに囁かれた。黒目がちなその瞳に僕が映りこんだ気がして背筋が冷える。
まるで自分が絵画に飲まれたような錯覚。強い眩暈がした。くらくらと、立っているのが辛い。
絵画に飲まれた染みは声を失って、何も答えることができない。
「死にたいんでしょ」
彼女は研ぎ澄まされた古刀のような凛とした笑みを閃かせた。
初めて見る、その笑顔。あの能面のような無表情は、美しい彼女を穢れた世界から守るための強固な殻だったことを知る。
その微笑に、僕は声を取り戻した。
「死にたく、ないよ」
「どうして?死ぬのが怖い?」
「そりゃあ、死ぬのは怖い」
「じゃあ、」