彼女の白い樹
同じアパートといっても他の住人と接する機会は少ない。
せいぜい顔を合わせた時に挨拶をするくらいだ。
そこに住み始めた頃は、彼女とも挨拶程度の関係だった。
親しくなったのは、ほんの些細なきっかけ。
当時浪人生だった私が大学の受験日に落し物をしたこと。
アパートの前に受験票を落としてしまったという、救いようのない愚かなミス。
それを彼女は私の元へと届けてくれた。
それだけでも心から感謝すべきだ。
しかも、彼女は五体満足な身体ではない。
それなのに電車とバスを乗り継いで来てくれた。
ただ、同じアパートに住んでいるというだけの関係だったのに。
その時、私は公衆の面前で泣いてしまって、初めて彼女に怒られたのだった。
それから、私と彼女の関係は以前より遥かに親密になった。
二十代後半だった彼女は、当時の私にとって姉のような存在だったのかも知れない。
兄弟姉妹がいなかった私には、自分を叱咤激励してくれる彼女が非常に新鮮だった。
彼女も私を弟のように感じてくれていたのだろう。
食生活が乱れている私を叱りながら何度も食事を御馳走してくれたりもした。
ただ、私は彼女に恋心を抱いていたわけではなかったと思う。
憧れはあったが、それ以上の想いは無かった。
彼女の方も私を恋愛の対象として見てはいなかっただろう。
私が頼りない貧乏学生であったということもあるが、何よりも彼女自身が恋愛を求めていなかったように感じていた。