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毒虫のさみだれ

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 教会の前に立ち、夜空の一角を削る尖塔を見上げる。尖塔の頂には大きな鐘が吊り下げられ、今は夜風に打たれるまま黒々とした姿を微かに覗かせていた。ミサの時間などとうに過ぎ去っているため教会に人気はなく、併設された修道院にも最低限の明かりだけが残されている。顔馴染みのシスターがこんな時間まで起きているはずもない──会えることを期待したわけでもなかった。
 ただ、異質な何かを期待しただけだ。
 五月雨は──有り体に言えば、ひどい退屈に悩まされていた。
 不登校を続けているのも、特に意味があってのことではなかった──いじめられたりすることもなければ無視されることもなく、ただそういうものとして扱われていたように思う。衣装の面に見える奇行は、教師の意見すら頑として聞き入れない姿勢が何故か同級生から尊敬の念を勝ち取る結果となった。中学生にもなれば周囲の態度もまた変わるのだろうが、少なくとも小学校在学時、五月雨が学校内で嫌な思いをしたことはほとんどない。
 とにかく勉強が退屈だったと、そんな思い出ばかりが残っていた。
 苦手だったわけではない──むしろ成績は良い方だったのだと思う。
 考えなくてもわかってしまう。
 意識せずとも記憶してしまう。
 努力を放棄しても理解できてしまう。
 教師達の語る言葉は中身のないスポンジのようなもので、何一つ興味を掻き立てるようなものはなかった。順調に中学、高校と進学していけば自分にも理解できない、難解で高等な学問があるはずだと信じていたのだが、本屋で手に取った参考書はどれもこれも当たり前のことばかり書き記されているだけで、センター試験の過去問集を一冊解き終えた時点で完全に飽きてしまった──同時に学校に行く意味も見出せなくなり、不登校生活を送るようになる。
 両親からはとにかく行くだけ行け、授業なんて寝ててもいいんだと言われたが、一度その通りにしたら嫌味な教師から散々説教された。中年女がきいきいと叫ぶのを見て、教師などという立派な聖職に就いている人間までもがここまで愚かなのだから、自分の将来はもっと悲惨で破滅的なものになるのだろう──対人能力が著しく欠如した自分がまともな職に就けるとは思っていないし、そこまでの甘さを社会に対して期待してもいない。祖父にそんな話をしたら、お前は二度と学校に行くなと言われたので、以来不登校生活を肉親の許諾済みで続けている。
 五月雨は、幼くして自らが落伍者であることを悟ってしまったのだ。
 悟り──認め、一通り絶望して──五月雨が選んだのが、諦めるという道だった。
 これから先の人生に楽しいことなど一切ない。
 生きていく上で満たされることなど一度もない。
 だから──ひどく退屈で、倦み疲れている。
 まだ未練があるのだろうと自覚はしていた。だからといって人並みの道に戻ることもできず、五月雨は中途半端なまま日々を流されるようにして生きている。
 晩生内五月雨にとっての日常とはつまり、退屈を敷き詰めた牢獄のようなものだ。
 だからこそ──異質なものを、求めていた。
 ミサごとに通い詰める教会は深夜に変質することもなく、黒々とした佇まいを覗かせている。茫洋として輪郭がぼやけ、夜に溶け込んでいるようにも見えた。角度か遠近に致命的な欠陥があるような構造に見えるのは、滴のように垂れ落ちる冷たい月光のせいなのだろう。月明かりはある場所を照らし、ある場所を隠し、直線で構成されているはずの建物の像を曲線に結ばせる。周囲の建物よりも一際大きくそびえ立つ尖塔は夜霧を突き刺し、撹拌しているようだった──事実教会の周囲だけは怖気を振るわせる湿気が立ち込め、空気そのものがひどく不快な感触を帯びている。近隣の家々は皆教会に背を向けるように戸を閉ざし、明かりを消して、息を潜めていた。
 ──いつも通りだ。
 いつも通り──夜がもたらす錯覚は倒錯的で背徳的で、そしてひどく嘘臭い。
 自分の感覚が何よりも信用ならないことを五月雨は十分承知していたので、あらゆる印象に対して疑ってかかることが日常化していた。何より綺麗だと思ったものが、他の人間からすれば醜悪極まりない代物だったことなど何度もある。五月雨は自分の嗜好に問題があることに自覚的だった──自覚していた上で治そうとも思えない。壊れゆくもの、崩れ去ろうとするもの、今まさに腐れ果てていくものを美しいと思ったし、その主観に口を挟まれれば多少は不機嫌にもなる。声高に主張しないだけで、五月雨なりの美意識は確かに存在していた。
 歪んだ美意識に、陰惨な教会の立ち姿は全く合致していた。毎晩違う道を辿っているはずなのに、最後は必ずこの教会へと辿り着いてしまう。ひとしきり眺め回して満足したところで帰路に着くのがいつもの道順だった。途中警官や集団でたむろしている若者達を避けるために幾つもの十字路を複雑に曲がり、大きく街全体を迂回するように自宅へと向かう。
 下宿屋に住み始めてもういい加減時間が経つのだが、ほとんど隣人達との付き合いはなかった──接点を持とうと努力してはいるものの、致命的に生活する時間帯が食い違っているのだ。朝型の生活に戻れば良いだけの話なのだが、幼少時から夜眠るという習慣を身に付けていなかったため、今更暮らしのリズムを切り替えることもできそうにない。何よりも、怪奇映画趣味が高じた挙げ句の部屋の有様は、一般人を引かせるには十分過ぎる代物だった。
「……肉まん」
 ──買って帰ろうかな。
 同じ下宿屋に部屋を借りている誰だかが、肉まんが好物だと言っていたような覚えがある。部屋番号も名前も思い出せないのは、勉強と違って人間に対しては意識的に記憶を遮断しているせいだった。人間はいつでも変化して、ぐにゃぐにゃと不定形で、酸素を吸ったり吐いたりして醜く不細工だ──何日か徹夜しただけで別人のように顔が変わるし、痩せたの太ったの一喜一憂しては体型に負荷をかけ続けている。歪み続ける肉の塊を記憶していると頭がおかしくなりそうで、五月雨は人間を記号の集合体として認識するように務めていた──それこそ肉まんだの紫ハンガーだの、特徴的な記号に当て嵌めて記憶する。
 五月雨自身は下宿屋の西側、角部屋に暮らしている。部屋番号は毎日書き換えていた──その日の気分によって、豚バラ肉だの酸化亜鉛だのと、とにかく法則性も何もない。今日は確か、散歩に出る際にポップコーンと書き換えてきたはずだ。意味も何もない、今日見た映画のタイトルをそのまま書いてきただけの話だったが。
 人の気配を察知しては曲がり角を選び直し、新たな道に迷い込んでは方角を修正していく。帰り際に、あのがらがらに空いたコンビニにでも寄って行こうと考えていた矢先──目の前に、大きな公園が立ち現れた。魔術じみた出現を遂げたわけではなく、単純に遠回りしすぎたということなのだろう。公園の入り口には車止めが三つ並び、その脇に緑川町自然公園と刻まれた石碑が鎮座している。市内でも有数の巨大な公園で、散策道やサイクリングコース、体育館やプール、テニスコート、野球場まで内包していると聞いたことがあった。五月雨自身は好んで運動をする性格でもなかったので、今まで見向きもしなかった場所だ。
 ──異質を。
作品名:毒虫のさみだれ 作家名:名寄椋司