横濱夕闇タウンガイド -岩亀楼の喜遊-
「喜遊サンが、親父さんの療養費のために三百両の約定金で身売りしたとき、いっこだけ条件が付いてた。何があっても異人の相手はしねえ、って約束だ」
「異人って、外国人ですか」
「攘夷志士の親父さんに育てられたってのもあるだろうけど、そん時のガイジンはけっこーデタラメな奴多かったからな。酔っぱらってレイプはするわ、そーいう奴が通りすがりの侍に斬られた日にゃあ、被害者ヅラして大騒ぎするわ……そりゃーマトモな奴も沢山いただろーがよ、日本人を下に見てたのはみんな同じだからな。喜遊サンが嫌うのも無理ねーよ」
「はあ……」
「でもアボットっつー大金持ちのアメ公が、喜遊サンを指名するどころか、大枚はたいて身請けしようとした。今っぽく言ったら愛人として囲いたがったんだな。とーぜん喜遊サンは断ったし、岩亀楼だって約定があるから突っぱねた」
いつの間にか、スタジアム裏の公園に入っていた。
垣間見える景色から想像していたより、ずっと広い。立て札を見ると、横浜公園と書かれている。
夕闇に土の香りが混じる。
アズマは少し歩く速度を落とした。
「突っぱねたんだけど――アボットのヤローは江戸幕閣にも威張れる武器商人でよ。悔し紛れに圧力かけやがったもんで、神奈川奉行から岩亀楼に、アボットに喜遊を身請けさせろっつーフザけたお達しが下っちまったんだよ」
「そんな――」
公的機関がいち外国人のわがままに動かされ、しかも日本人を押さえつけなくてはいけなかったのか。
「日本は、そんなに弱かったんですか?」
「弱かったね、今よりもっと。横浜なんて土足で踏み躙られてたようなもんだ。ガイジンはよその家に入る時も靴脱がねーからな」
「……」
「お上からのお達しじゃ、岩亀楼も受けるしかねーわけだ。でも、喜遊サンはアボットの妾にゃならなかった。身請けする約束の夜、勝ち誇ったツラで迎えに行ったアボットが見たのは――短刀で自分の首かっ切った、喜遊サンの死体だったんだよ」
「……自害したんですか」
「ああ」アズマはまた何やら暗唱する。「いかで日の本の女の操を、異人の肌に汚すべき。わが無念の歯がみせし死骸を、今宵の異人に見せ、かかる卑しき遊女さへ、日の本の人の志はかくぞと知らしめ給ふべし――日本人なら遊女でもこんなプライド持ってるってことを、私の死体で異人に分からせてやれ、っつー遺書だった。のこのこやってきたアボットは手ぶらで帰る羽目だ」
「す……ごい、人ですね」
すごいというか、物凄い。もはや気が強いなんていうレベルを超えているではないか。
やがて横浜公園の奥の隅、木々の中にひっそりと佇む石灯籠の前で、アズマはゆっくりと立ち止まった。
「これな、岩亀楼の石灯籠だ」
「……これが」
「喜遊サンもさ」アズマは石灯籠を見つめる。「今の日本の女、基本的に嫌いなんだ。言いたいこと言うばっかで突っ張りきれてねーから」
視線が動き、きよ子を見る。
「でもお前、それなりに気合入ってるみてーだし」
「え――」
「目ェ閉じろ」
アズマはポケットから両手を出し、意図が分からずに首を傾げるきよ子を、苛々と低く怒鳴りつける。
「言う通りにしろや。グダグダしてたら帰るぞ」
「は、はい」
思わず目を閉じる。
真っ暗になった景色の中で、風の音や通行人の声に混じって、アズマの声が聞こえてくる。
「いいって言うまで絶対目ぇ開けんなよ。開けたらどうなるか俺にもわかんねーし」
「はい――」
「じゃあ行くぞ」
「!」
不意に――全ての音が消えた。
風の音も、人の足音も。
それだけではなく、頬に触れていた空気の流れすら無くなった。まるで屋内にいるみたいに。
「あ……あの」
怖くなって口を開いたきよ子の頭を、ぱしっ、と何かが叩く。
「いたっ」
「いつまで目ェ閉じてんだよ気持ちわりーな。開けろ」
「は、はい――」
いいと言うまで開けるなと言ったくせに。
内心で文句を言いながら目を開けると、そこは今まで立っていた横浜公園の隅ではなく、どこか古い日本家屋の、まっ暗な廊下であった。
「え――」頭が混乱する。「え、ええっ?」
「でけー声出すな。岩亀楼だよ」
「がん、き、ろう……」
きよ子は眩暈のするような感覚をおぼえながら、その景色を見回す。
広く長い廊下であった。両側には障子の戸が並び、それら全ての向こう側が暗い。天井は低いが奥は深く、ときどき柱の隅に立っている蝋燭だけが照らす空間は、黒い靄に包まれてでもいるように、曖昧な視界しかもたらしてくれなかった。
「どうして――」
「説明するの面倒くせェ」
アズマは靴を乱暴に脱ぎ、靴下になって廊下を歩きだす。
「靴ここに脱いでついてこいよ。あの人、松の間にいるから」
「は、はい……」
これは夢なのか、それとも催眠術なのか。しかし革靴を脱いで歩み出したきよ子の足の裏には、確かに、冷えた床板の感触がした。
暗い廊下にも障子の向こうにも人の気配はしなかったが、よくよく耳を澄ますと、三味線らしき音色や人々の笑い声が、遠く微かに聞こえてくる気もする。怖くなったきよ子は暗闇の中、アズマの背にぴったりと付いて歩いた。
廊下の付きあたりには階段があり、アズマはそこを、慣れた足取りで上ってゆく。
「横浜には時々、こういう隙間があってよ」
「隙間――?」
「変な土地なんだよ。だから横浜で迷子になるんじゃねーぞ。下手なとこ入ると帰れねーからな」
「……はい」
「この奥だ」
二階――かどうかは知れないが、さっきより一つ上の階に上がると、廊下の奥に一つだけ、黄色く光る障子が見えた。あそこだけ明かりが灯っている。
「俺が話してみるから、取り敢えず黙っとけな」
「はい……」
きよ子は頷く。
二人はゆっくりと歩みを進め、光る障子の前で立ち止まった。
障子には薄らと女の影が見えた。
「あーちゃんかい?」
蓮っ葉な若い女の声が聞こえる。
「ここんとこ顔出さないから心配しちまったよ。入ってきてお菓子でも食べな」
「うん、ありがと」
あーちゃんと呼ばれたアズマの口調は、幼い頃から自分を知っている大人に対するような、何となくの甘えを帯びた調子であった。
「でも、あー、なんつーかな」耳の後ろを掻き、言いづらそうにアズマは言う。「今日ちょっと、女の子連れて来ちゃってさ」
「えェっ?」
障子の向こうの女は、あからさまに嫌そうな声を出した。
「何だい、野暮なことだねえ」ちっと舌打ちが聞こえる。「帰しちゃっておくれよそんなもん。あたしァ今ね、暫くぶりにゆっくりあーちゃんと話ができるって喜んだんだよ。がっかりするじゃないか」
「いや……ごめん」
拗ねたことを言われ、アズマはぽりぽりと頭をかく。
「でも、ちらっとだけ話聞いてやってくんねーかな」横目できよ子を見る。「この子の友達がさ、どーしよーもねー野郎どもに犯されて、飛び降り自殺しちゃったらしくて――被害者死んじゃってるせいで、お巡りも取り合ってくれねーらしいんだわ」
「はン」
馬鹿にしたように女は笑った。
作品名:横濱夕闇タウンガイド -岩亀楼の喜遊- 作家名:もののけロース