横濱夕闇タウンガイド -岩亀楼の喜遊-
「……殺すってお前」アズマの三白眼が光る。「パクられるよ。分かってんの?」
「関係ない」
「……。ふん」
目を伏せて二度、瞬いてから。
「わーかったよ」
アズマはため息をつくように言った。悪かった、と言ったのか、分かったと言ったのかは判然としないが、ともかく煙草の火を消した。
「何とかしてくれそーな人んとこ、連れてってやるよ」
「え――」
「取り敢えず関内行くから」立ち上がる。「ついてこいや」
コートの前を閉じながら、アズマは出口の方へ歩いてゆく。
きよ子も慌てて席を立ち、そのあとに続いて店を出た。
無言で歩くアズマの背に従い、南幸橋を駅の方へと渡る。アズマはミンと違って歩幅を合わせてくれないので、ほとんど小走りに近いような速度でないと追いつけない。
ふと、橋の中央でアズマが立ち止まった。
「何してんだお前」
「こっちの台詞なんだけど」
正面から出くわしたのは、黒い毛皮のコートを着た、髪の長い少女だった。顔立ちからして中学生くらいだろうか、それにしても小柄である。
「彼女つれてどこ行くの? 女の子、嫌いって言ってたくせに」
「バカか」アズマは吐き捨てる。「こんなお前、地味で弱そーなツラした女が彼女なわけねーだろ」
「へー、あんたって派手で強そうな顔の子が好きなんだ。それあたしじゃん」
「うざ……」
アズマは心底うざったそうに少女を見下ろす。
少女は確かに派手な顔立ちをしていた。ハーフとも思えないが、トンボのように目が大きく、色が白く、まつ毛が長い。妙に艶やかな髪だけが和人形のようで浮いていた。
ガラス細工じみた瞳がこちらに向けられる。
「初めまして」
「あ――」
どう見ても年下にしか見えない少女に、つい、ぺこりと頭を下げる。
「どうも、武藤です」
「葉田理江子です」
少女は名乗っただけで、またアズマの方に顔を向ける。全く表情の無い子だった。
「これからどこ行くの?」
「……ねーちゃんとこだよ」
「スタジアムね。車出させてあげようか」
「いいよ」アズマは面倒くさげに手をひらひらさせる。「お前は電話で命令するだけでいいかもしれねーけどよ、ヤクザってお前、隣町に行くだけでも挨拶とか色々あって大変じゃねーかよ。若い人らにゴチャゴチャ時間取らせんのヤだし」
「考えるほど面倒じゃないわよ。このあたりで時津より貫目が上の人間なんて、そういないもの」
「どっちにしたってスジもんの車は乗り心地良くねーんだよ」アズマは急に歩き出す。「オラ行くぞ」
「え? あ、はい」
きよ子はその背中を追いかけつつ、理江子の方を振り返る。
理江子は相変わらず何の表情も作らぬまま、大きな目でこっちを見つめて、「ばいばーい」と手を振っていた。
駅の方へ歩きながら、きよ子はアズマに問いかける。
「今の女の子、お友達ですか?」
「知り合いだよ」
「すごく可愛かったですね……」
「ろくなもんじゃねーよ、あんな奴」
アズマは舌打ちしながらずいずいと歩いてゆく。
きよ子はそれ以上詮索できなかった。
ヤクザという単語が出てきたことには、今さら驚かない。アズマやミンは、そういう世界と近いところにいる人種なのだろう。
しかしそのヤクザが少女の命令で動くとはどういうことだ。漫画じゃあるまいし、女の子が暴力団の組長をやっているなんて絶対に有り得ることではない。
「……。はあ」
考えるのに疲れ、きよ子はため息をつく。
いつの間にかJRの改札前に来ていた。
アズマが切符を買うのを待って電車に乗り込み、ふた駅ほど揺られると、横浜スタジアムや中華街で有名な関内駅へ着いた。電車の中では終始無言だったが、気まずさは感じなかった。さっきラーメン屋で思いきり怒鳴ってから、何かが麻痺してしまったようだ。
いよいよ見慣れぬ駅のホームに降り立ち、左右を見回すと、アズマが久しぶりに口をきく。
「中華街に行く観光客とかで、ココで下りちゃう奴よくいるんだけどな、中華街行くなら次の石川町で下りた方が近けーんだよ」
「へえ……」
「まあ、どーでもいいけどな。こっちな」
アズマは本当にどうでも良さそうに、スタジアム口と書かれた方へ歩いてゆく。初対面の時より幾分か態度が軟化した気がするのは、きよ子の錯覚かもしれない。
改札を出て左手に逸れ、横断歩道を渡ると、すぐに横浜スタジアムの敷地内に入った。
球場の内部はテレビ中継などで何度も目にしたが、外観を見るのは初めてである。周囲は想像していたように殺風景ではなく、やたらに木々なども生い茂り、傘の下にはどうやら剣道場のようなものも見えた。
「あの――」
スタジアムのほうへと歩いてゆくアズマに追い付き、きよ子は問いかける。
「どうしてこんなところへ?」
「家造りは雇気楼のごとくにして、あたかも龍界にひとしく――」
アズマはポケットに両手を突っ込んで歩きながら、独り言でも唄うように呟いた。
「六月の燈籠、葉月の俄踊、もん日もん日の賑い目をおどろかし、素見ぞめきは和人、異人打ちまじりて朝夜を分ず」
「え……え?」
「娼妓道中は精麗をかざりて唐物、和物を好みの取りまじへ、さし飾り着かざりたる粧ひ、天女のあまくだりしかと疑がわざる。楼上には洋館の花を咲きみだしぬ、座敷には金銀の宝を蒔きちらせり――何のことだと思う?」
「わ……分かりません」
「この球場があったとこに昔、港崎っつーバカでけえ遊郭があってよ。まあ、三度も炎上して何百人も焼け死んだ、呪いの色町だけどな」
「遊郭――」
ここに? 今歩いているこの土地に、そんなものがあったのか。きよ子は遊郭といえば吉原くらいしか知らないし、横浜にそんなに大きな遊郭があったなどと、今まで聞いたこともなかった。
アズマは砂を蹴りながら続ける。
「そこで一番デカかったのが岩亀楼って遊女屋で、昼間にも見物料取れるくらい豪勢な店でよ。今でいったら、銀座の最高級クラブとアミューズメント何とかが合わさったみてーな――いや、そーいうのとは格が違うわな」ちらりと振り返る。「ヨコハマのでかい遊女屋つったら、ある意味外交施設みたいな感じもあったんだよ。ラシャメンの認可制とか言って、分かる?」
「いえ――」
何語なのかも分からない。
そっか、とアズマは話を戻した。
「とにかくアレだ。その岩亀楼のナンバーワン、よーするに横浜のナンバーワンが、喜遊ってヒトだったんだわ」
「きゆう?」
「喜ばせるに遊ばせるって書いて喜遊な。メチャクチャ頭良くて、メチャクチャ芸達者で、メチャクチャ美人で、メチャクチャ気ぃ強かったねーちゃんだよ。元々は吉原にいたらしーけど、ヘッドハンティングっつーの? それで早い内に引き抜かれて、横浜の花になったんだと。どんなに金持ってる客でも人間性が気に食わなきゃ叩き返しちゃうよーな、とんでもねー人だった」
まるで見てきたようにアズマは語る。
「けどその人な、十九で死んじまったんだよ。数え年だから今でいったら十八か」
「え――」
作品名:横濱夕闇タウンガイド -岩亀楼の喜遊- 作家名:もののけロース