横濱夕闇タウンガイド -岩亀楼の喜遊-
「お上なんざ昔っから当てになるもんかね。死んだ人間当てにするくらい馬鹿馬鹿しいよ」
「まあそう言わないで聞いてよ」
「何だいもう」
「その死んだ子、青原カンナっていってさ。将来は外国で働くのが夢で、ふだんから英語の勉強とかしてたらしいんだけど」
「はーっ、異国かぶれかい」忌々しげに女は言う。「本当、腐ったもんだねェ」
「その子、桜木町のスポーツバーでたまたま知り合った男と、時々会って英会話のレッスン受けるようになったんだって。でもそいつがクソヤローでさ……その子のこと騙して呼び出して、同じ国から来てる仲間と一緒に、テープで縛ってマワしたらしいんだよ」
「あん――?」
女の声の調子が変わる。
「ちょいと待ちなよ、どういうことだい」
「みんなで楽しそーに酒飲んだりテレビ見たりしながら、一晩中代わりばんこにオモチャにしてさ」アズマはため息をつく。「最後にゃ飲み残しの酒と食い物、頭からぶっかけやがったって」
「待ちなってんだよ」
女の影が立ちあがり、ゆっくりとこちらの方へ歩いてくる。女は障子のすぐ向こうで立ち止まった。
「成程ねえ。あたしなんぞンとこへ持ってきたワケも、どうやら分かってきたよ」声が刃物の光を帯びる。「要するにその、娘を手篭めにした野郎どもってのァ」
「ああ」
アズマは頷く。
「そいつらみんな、亜米利加人だ」
「――っ!」
ぱぁん、と障子が開いた。
……蝶が。
煌びやかな座敷の光とともに、大きな蝶が現れたようだった。
その一瞬、色とりどりの羽が舞い散ったのは、おそらく気のせいではない。だってここは夢うつつ、横濱の闇の隙間なのだから。
圧倒されるきよ子を見据え、花魁姿の天女は言った。しゃんと結い上げた日本髪の下、浮世離れした美貌を歪め、平成の世になお燃えさかる、百五十年の怒りと共に。
「喜遊が何とかしてやらあ。話ィ聞かせな、お譲ちゃん」
「う――」
ぶわり、きよ子の目から涙が溢れだす。
どうして泣いてしまったのかは分からない。だが少なくとも、初めて会った、それも今ここへ本当にいるかも分からない人だというのに、この人はきよ子にとって、親よりも頼もしく感じられた。
喜遊の胸にすがり付き、きよ子は泣いた。見たこともないほど華やかな着物に、とめどない涙が染み込んでゆく。喜遊はそれを怒りもせず、そっと頭を撫でてくれた。
よろしくお願いね――と、横でアズマの声が聞こえた。
四
ちょうど一週間後の夕方、アズマは横浜駅の四番ホームの隅で、煤けた金網にもたれてコーヒーの缶をくわえていた。さっき東京方面への列車が来て客を拾って行ったばかりである。
風が吹き、相鉄線側の階段を上ってきたミンが声をかけてくる。
「ういー、見学に来たよ」
「おう」
缶を金網の上に置いて、アズマは向こう側のホームをあごで指す。
「あの、端っこに立ってる茶色いダウンの奴な」
「どれよ――」ミンは前かがみになってそちらを見る。「おお、なんかイケメン外人じゃん。かーっこいー。ひゅー」
「お前の方が全然ツラぁ良いんじゃねーの?」
「えー? オレが女の子だったらの話でしょ、それ」
ミンは楽しそうに言う。
「あれが主犯格か。まだ二十代だって?」
「どっかの英会話何たらの何たらかんたらだってよ。知らねーけど」
アズマも横目でその外国人を見る。
異国から来た金髪の若者は、手に荷物を持たず、不自然な立ち方で左右に揺れていた。
この距離では何を言っているのか聞こえないが、ぶつぶつと常に口を動かし続けている。周囲の者たちも不審に思っているのだろう。向こう側のホームはさして空いてもいないのに、彼の周りには、やや遠巻きに円のようなものが形成されていた。
がたん、がたんと右の方から列車の音が近づいてくる。さっきのアナウンスによれば、ここを通過してゆくつもりの列車だ。
ポケットに手を突っ込み、ミンが呟く。
「これでやるのかな?」
「多分な」
アズマも思わず、ミンのように笑う。
ホームとホームの間に、轟音とともに鉄の塊が突っ込んでくる。
外国人の若者は、こちら側へ向かって――少なくとも見た目にはだが――自らの足で跳んだ。
その口が大きく動く。電車の音が轟いていたが、その声は精いっぱいの絶叫だったらしく、アズマの耳にもしっかりと届いた。
HELP。
大きく吹っ飛ばされ、ブレーキをかけきれなかった列車に一瞬ですり潰される寸前、彼は怯えきった顔でそう叫んでいた。
長い急ブレーキの音に紛れるように、ミンが手を叩く。
「すげーすげー、一瞬であんなバラバラになるんだ。やっぱ電車のパワーはハンパないね」
「お前動体視力いいな」
さすが武術をやっているだけはある。アズマには残念ながら、よく見えなかった。
電車が完全に止まると同時に構内が騒然とし始める。
ざわめきをよそに、ミンはポケットからメントスを取り出し、口に放り込んだ。
「こえでれんいん?」
「何言ってんだか分んねーよ、食いながら喋んな。他の三人は一昨日いっぺんにやられちゃったから、これで全員だよ」
「聞こえへるりゃん」モグモグと噛み潰す。「かーいそうね、まだ若いのに」
「ホントにな。惜しい連中を亡くしたよな」
「知らんけどね」
「おう。知らねーけどな」
言いながらアズマは腕時計を見る。ディオールの時計の針は、午後の七時を指していた。
「あー、つーかメシどうする? そろそろ夕メシ食っとくべき時間だべ」
「ハイカラ麺」
「なんでお前いつも同じ答えで即答できちゃうの……?」
呆れながらアズマは、柱の傍に立っている少女の方を向く。
「お前は? さっきから黙ってっけどよ。帰る前に横浜でなんか食ってくか?」
「私もハイカラ、味玉乗せで」
武藤きよ子もまた、即答であった。
「でもその前に、崎陽軒でシウマイ弁当買ってもいいですか? あとで喜遊さんに持って行かなきゃいけないんです。今回のお礼ってことで」
「持って行くって、何お前――石灯籠の玄関、開けてもらってんの?」
「はい」
走る駅員、ざわめく客たちをよそに、きよ子はにこりと微笑んだ。
「お琴と書道を習ってるって言ったら少しだけ気に入ってもらえて、今度からいつでも教えてくださるって。あと、アズマさんが子供の頃の可愛いエピソードも、色々聞かせてくれるって仰ってました」
「勘弁してくれ」
アズマは頭を抱える。これだから女は手に負えないのだ。
横でけたけたと笑うミン。微かに流れる、異人の血の香り。乾いて冷えた風に混じって、どこからか遊女たちの笑い声が聞こえてくる。
ここは横浜、港町。浮ついた夕闇の街である。
横濱夕闇タウンガイド ――岩亀楼の喜遊―― 了
作品名:横濱夕闇タウンガイド -岩亀楼の喜遊- 作家名:もののけロース