横濱夕闇タウンガイド -岩亀楼の喜遊-
きよ子はおずおずと口を開く。
「あの――」
「あん」
不機嫌そうに横を向いたアズマは、一応返事を返してれた。
「何だよ」
「美千代ちゃ……さんって、どなたですか?」
「やめとけ」
顔をしかめ、ふっ、と煙を吐く。
「お前とカンケーねーから。忘れろ」
「――はい」
踏んではいけない石だったらしい。
しばらく沈黙があった。
ラーメン屋にしては小洒落た店内に、FMラジオの音楽が流れている。
口を開いたのはアズマだった。
「あいつ――ミンの奴な」灰を落とす。「あれ、このへんの悪い奴らの中で一番偉いんだわ」
「……はい」
「ああ見えたって鬼みてーに強くってよ。さっきあんな感じで言ったけど、なんかあったら助けてもらえ。ヤクザよか後腐れねーし、中国系にも顔きくから」
「はい……」
きよ子は頷く。
ミンは喧嘩が強いのか。とてもそうは見えなかったけれど――中国系というのは、やはり、そういう系なのだろうか。
アズマは面倒くさそうに続けた。
「で? なんか話があるんだって?」
ぼりぼりと頭を掻く。
「くだらねーことだったら途中で帰っからな」
「く」
思わず大きな声が出そうになり、すんでのところで堪える。
「くだらないことじゃ……ありません」
「――ふん?」
ハスキー犬の三白眼が不思議そうに動いた。
二
店を出てコンビニの脇の路地へ入った途端、ミンは死角から何者かに「ぶつかられた」。
明らかに故意の衝撃を受けたことで、ミンは反射的に拳を繰り出していた。えぐり込むように突きあげた拳は相手の腹部に命中し、その体を僅かばかり硬直させる。
続けざまに肘を振るおうとしたが、その刹那、ようやく相手の顔を認識して、すんでのところで動きを止めた。
「な――」腕をおろす。「んだあ?」
「うおお、痛たぁ……」
苦しそうに腹を押さえて体を折ったのは、顔見知りの中年男だった。
「は、ハマの若いんはケンカの礼儀知らんのかい」男は涙目でミンを睨む。「普通どつく前に怒鳴ったりメンチ切ったりするもんやろ」
「知らねーよそんな礼儀……つーか何、土井さん? こんなんで引っ張っても意味ねーよ?」
「からかおうとしただけやがな。まさかいきなり腹パン食うと思わんかったわ」
土井は苦しそうに姿勢を直し、石のような色をしたコートの襟を正す。
「俺もハマ署に来てええかげん長いからな。ションベンみたいなことでお前パクっても、竹やら何やらが代わりに立つだけいうことくらい分かっとるわ。しかしお前強いなァ、いてて」
角ばった五十路前の顔をしかめ、大げさに腹を撫でる。
「今のもあれか、得意の何たら拳いうやつか」
「何の用? オレ忙しいんだけど」
「忙しいやろな、人探しで」
「あ?」
ミンの眉間がぴくりと動く。
路地に風が吹き抜けた。
にやっ、と四角い顔が笑う。
「そない怖い顔すなや。べっぴんな顔が般若になったで」
「邪魔すんじゃねーよ……」
「そらこっちのセリフや」土井はたじろがなかった。「何考えとるか知らんけどな、お前ら揃いも揃って殺気出しすぎやで。駅前歩いただけで分かるわ。ええか」
ずい、と顔を近づける。
「妙なことせんと警察に任しとき。言うても無駄かもしれんけどな」
「無駄だよ」
即答するミンの拳は握り締められていた。
はっ、と土井は笑った。
「せやろな」
「お巡りじゃヤりきれねーこともあんだよ、オッサン。さっきもいたぜ、アズマんとこ訪ねて来たコ。ああいうのもよ……てめーらが不甲斐ねーからじゃねェのか」
「上行寺東か」
土井はハイハイ楼の方を見る。どうやら、さっきからこの辺りをうろついていたらしい。
「この街は何かっちゅうとあのガキやな、やたら名前ばっか出てきよる。それやのにマエは無い、黒羽根の事務所にも出入りしてない、お前らともつるんでない。何やねんアレは」
「アズマは横浜のガイドマンだからさ」
「あん?」
「たまたまそーいうことになってんだよ」ミンは笑う。「ついてねーよな」
三
親友、青原カンナが最期の三日間をどう過ごしたのかは、本人にしか分からない。きよ子に届いたのは、死の間際にかかってきた一本の電話と、そこに含まれた事実だけだった。
「犯されたんです」
きよ子は膝の上で両手を握りしめる。
「カンナはその男のこと、好きだったのに――呼び出された部屋には、そいつだけじゃなくて、何人も仲間がいたんです。カンナは逃げようとしたけど殴られて、一晩中玩具にされました」
「うん。まあ、それはさっきも聞いたよ」
しゅぼ、とライターの音が響く。
「それでその子、二日後に飛び下りたんでしょ」
アズマの反応はつまらなそうだった。
「お巡りにも言わないで」
「……はい」
「わかんねーな、女っつーのは」アズマの吐いた煙が溶ける。「今時貞操も傷物もねーだろうによ、たかだかつっちゃアレだけど、犯されたくらいで死ぬこた無ェんじゃねーの? しかもケーサツにも言わんで」
ため息をつき、分かんねえなァ、と繰り返す。
「そりゃお巡りも取り合わねーよ。死んじゃってちゃどうしようもねーもんな」
「……はい」
きよ子はスカートの裾をぎゅっと握る。
長くなった灰を落として、アズマは頭をかく。
「それで? その連中に仕返ししたいから手伝えって?」
「……お願いします」
「アホくせえ」面倒くさそうにアズマは言う。「金にもなんねーのによ。なんでそんな女のためにお巡りの真似ごとしなきゃいけねーんだよ」
「……っ」
ぐっと唇を噛む。
アズマは椅子にもたれ、なおも続けた。
「だいたいそいつが死ぬのがアホなんじゃん。生きてりゃ証言でも何でもできたのに、なんでワザワザ死んでんだよ。お嫁さんに行けないからか?」椅子に背をもたれて笑う。「頭ワリーんじゃねーの」
「……ない」
「あん?」
「カンナは頭悪くない!」
きよ子は金切り声を上げていた。
恐らく、店員はこちらを見ているだろう。
だが止まらなかった。
「さっきからテーソーとか何とか、的外れなこと言ってんじゃねえよ! 女とか関係ねえんだよ!」
下を向き、どん、どん、と握り拳でテーブルを叩く。
「悔しかったの! あの子、死ぬ前に電話で、何度も悔しいって言ったの! 一生懸命もがいてる自分のこと見て、笑いながら手拍子してるあいつらの顔が――バカにした笑い顔が、ずっと頭から離れないって……」泣きそうだった。「カンナは悔しくて! プライド潰されたのが我慢できなくて! 死んだんだよッ!」
思いきり叩きつけた手が痛んだ。アズマは何も言わない。きよ子は顔を上げた。
「もう――あんたなんかに頼まない」
ぐすりと鼻をすする。警察にもろくに取り合ってもらえなくて、どこにも相談するところが無くて……やっと掴んだワラみたいな希望が、こんな奴だったなんて。プライドに殉じた親友をバカにされてまで、頭を下げるくらいなら。
「あたしが全員刺し殺してやる。一人残らずブッ殺してやる」
作品名:横濱夕闇タウンガイド -岩亀楼の喜遊- 作家名:もののけロース