横濱夕闇タウンガイド -岩亀楼の喜遊-
「お袋でも何でもねェよあんな豚。余計なこと言うな」
「ごめん」
「あークソ! うるせーから失敗したじゃねーかよ!」
手をレバーから離し、ばんと画面を叩く。既に最高速度に達していたブロックは、たちまち積み上がって灰色に染まった。
「ボケが!」
アズマは立ちあがって椅子を蹴飛ばし、きよ子を押しのけて階段の方へ歩いてゆく。
もう――とミンは呆れた顔をする。
「どこ行くの?」
「ハイハイ楼」
「あ、オレもハイカラ麺食べたい。後からきよちゃんと行くね」
「勝手にしろ」
ダッフルコートのポケットに両手を入れて、アズマは階段を下りてゆく。
やれやれと息をつき、ミンはきよに苦笑を向ける。
「ホントごめんね、あいつの言うことイラッとしたでしょ」
「いえ――」
きよ子は首を横に振る。
確かに女として怒らずにはおれない言葉の数々であったが、きよ子はそれよりも、アズマの発した雰囲気にすっかり委縮していた。電話越しや文章のやり取りならともかく、あの場で口を挟もうものなら、たちどころに殴られそうで怖かった。
立ちあがったミンは、それを察したかのように優しく手を取って、覗き込むように微笑んだ。
「怖がんないでやって。ホント悪い奴じゃないから」
それからゆっくりと手を離し、階段に向かって歩き出す。
「色々あって卑屈なだけなんだわ。ああ見えてさ、人が困ってる時とか、ちょっとだけ優しーんだよ。行こ」
「はい……」
恐る恐る、きよ子も続く。
ゲームセンターを出ると、もうアズマの姿は無かった。
ミンはさっき来た道を戻り、南幸橋のほうへ歩いてゆく。
「腹減ってる?」
「え」そういえば何も食べていない。「はい、少し」
「よかった、じゃあ一緒にラーメン食べよう。あ――竹ちゃん!」
交差点のところにいる竹に手を振る。
「ハイハイ楼行くからおいで!」
「あ、自分さっきメシ食っちゃいました」竹の野太い声は、少し張るだけで車道越しにもよく聞こえる。「すんません」
「わかったよ、もう二度とおごってやんねーから!」
「勘弁して下さいよ」
「あはは」
ミンは楽しそうに笑いつつ、またきよ子の手を取る。
「行こ。すぐ近くなの」
そして早足で歩き出す。
南幸橋を渡りきり、斜め左に曲がってすぐ、右側の路地へ。
そこはラーメン屋ばかりが何軒も連なった小路であった。
「たまがったとか大勝軒も美味いしさ、最近あっちに一蘭も出来たんだけど、なんかいつもハイハイ楼なんだよね。あ、ココね」
迷いなくガラス戸を押し開けて入ってゆく。
さほど人のいない店内に、いらっしゃいませ、と数人の声が響いた。
前払制なのか、ミンはレジのところで立ち止まって、財布を出しつつ店員に注文する。
「ハイカラの辛さ二倍。きよちゃんは?」
不意に振り返って聞いてくる。
来たこともない店だし、メニューを見る暇もなかった。慌てて答える。
「ふ、普通ので」
普通がどんなだか知らないが、もたもたするのは気が引けた。
ミンは五千円札を出して言い直す。
「あとハイロウのトッピング無しお願い」
「ハイカラ二倍にハイロウ、以上で?」
「あい。お釣りいらないから」
「ありがとうございます」
店員はペコっと礼をして金を受け取る。
清算を終えたミンは、慣れた足取りで店の奥へと入ってゆき、壁際にあるテーブル席の客の頭をつついた。
「お待たせちゃん」
「待ってねーよ」
アズマであった。
ミンは悪びれもせず向かいに座り、きよ子の方を見て、こっちへと手招きしてくる。
従うしかなかった。
きよ子とミンは、まるで三者面談のようにアズマと向かい合う。ずるずると麺をむさぼるアズマを前に、きよ子はまだ注文の品も来ない手持無沙汰で、どうしていればいいのか分からずに俯いていた。
カウンター席が空いているのにテーブルで食事をしていたということは、あとから同席するのを許したということだろうが、何を言っても怒鳴られそうで切り出し方が分からない。そもそもこの男は、噂で聞いたような何でも屋なのだろうか。もしかしたら、ただ街の若者に顔がきくというだけの男なのではないだろうか。
やっかいな人物と相対してしまっただけなのかもしれない。
怖気づいていると、ミンが助け船を出してくれた。
「取り敢えず相談してみなよ。アズマが動いてくれなくても、オレらがなんか手伝えるかもしんねーしさ」
「てめーらみてーな犯罪集団が何手伝うんだよ」
餃子を口に放り込み、品悪く頬張りながらアズマは言う。
「お前よ」
ぎろりと三白眼がきよ子を睨んだ。
「コイツが何だかよく分かってねーだろ」箸でミンを指す。「コイツはお前、無茶苦茶悪い奴だからな。なんも考えねーで頼ったら取り返しつかねーぞ」
「まーね。場合によっちゃ金取るし、オレら動くとお巡りも目ぇつけてくっからね」
ミンは細い脚を畳み、かかとを椅子に引っかけて笑う。
「けどアズマなら安心だよね」
「チッ」
アズマは面白くなさそうに麺をすする。
きよ子の腕を肘でつつき、ミンは聞えよがしに囁く。
「ね。あんま悪い奴じゃないっしょ」
「うるせーんだよガタガタよ」
スープをすすり、からん、とレンゲを置く。
「もう何でもいいけど食ってからにしろや、落ちつかねーから」
アズマはそう、面倒くさそうに吐き捨てた。
きよ子たちの丼が届く。
いただきます、と会釈すると、ミンはもう箸をつけているところだった。
「アズマさあ」
スープに浮かんだ挽肉を掻き回しつつ、ミンは言う。
「先週の土曜のこと、あれからなんか分かった?」
「あん」
「ほら、美千代ちゃんの」
「ああ――」アズマの表情が陰る。「ワリー、なんもわかんねー」
「そっか」
ミンの反応はそれだけだった。
会話の意味は、きよ子には知れない。さっきから分からないことだらけだ。犯罪集団だとか、警察がどうとか。
分からなくてもいいのだろうが、どうにも不安である。しかし――きよ子は向かいのアズマを見ながら考える。
今まですがった誰も、きよ子の力にはなってくれなかった。親も、学校も、警察ですら。今はどんなに胡散臭い者であれ、頼ってみるしかないのだ。
腹をくくって口に運んだハイロウ麺は、横浜らしい洒落た味で美味しかった。
ミンはあっという間に辛そうなラーメンを平らげ、立ち上がる。
「そしたら行くわ」
「オイ、この女マジで置いてくのかよ」
「いいじゃん。どーせアズマ、自分でなんかするんじゃねーんだし。オレらと違ってさ」
「ふん――」
アズマは箸を置き、煙草を出して火をつける。
「あー、美千代ちゃんにはよ」
アズマはその女性の名前を、恐らく親しみを込めて呼んだ。
それから、ゆっくりと煙を吐く。
「俺もけっこー、目が合うとだけどさ、声かけてもらってたわ」
「……うん」
頷いたミンの顔は、フードに隠れて見えなかった。
彼が去って行った店内には、いつの間にか他の客の姿は無く、ただ黙って煙草を吹かすアズマと、余った餃子と、下を向くきよ子だけが残っていた。
作品名:横濱夕闇タウンガイド -岩亀楼の喜遊- 作家名:もののけロース