夏の弔い
まるで、じくじくと心臓の鼓動に合わせて痛む傷口みたいだ。実際に聞こえるわけではないのに、体の中、それも心臓とはまた違う中心から確実に痛みを訴える。そんな音と同じように、この鳴き声も外からではなく中から聞こえているのかもしれない。そこまで思考が及んで、『痛み』という言葉に、何を馬鹿な、と自嘲の笑みが浮かんだ。別れを切り出したのは他ならない私自身だ。それなのに、去っていったあの日々を惜しみ、あまつさえ何の痛みを訴えるというのだろうか。
鞄から取り出したミルクティーを蛍光灯に透かし、所々塗装の剥がれた柱に半身を預けた。一口しか飲んでいないため、ボトルの中で重そうに液体が揺れる。それに額を預けて瞼を下ろし、あの時孝太が口にした言葉をなぞる。いっそ緩慢とさえ言える程、ゆっくりと、噛みしめるように。どうして、と。
困ったように眉尻を下げて笑む顔も、いつも同じミルクティーばかり飲んでいたところも、嫌いではなかった。今だって、そうだ。ならば、と再度同じ問いを自身に繰り返す。
そして、幾度目かの問いかけに答えるように瞼の裏に浮んだ、いもしない相手を探す蝉の姿に、唐突に視界が開けたような感覚を覚えた。それは理解というにはあまりにお粗末なもので、最初から見ていたはずの風景に今更気づかされたようなものだった。片手で視界を覆い、私はあぁと喘ぎにも似た声を漏らしていた。
別れを言ったのは、確かに私だった。それは、いつの頃からか、今となっては既に曖昧なのだけれど、彼の瞳の中に私ではない誰かの影を見つけたからだった。最初こそ気のせいだと思い込もうとしていたけれど、それは日を追うごとに濃くなっていって曖昧だった輪郭をはっきりとさせていくのだ。私から切り出すまで、孝太からそれらしい話を言われたことは一度もなかった。態度だって、これといってそれ以前と変化があったわけではない。それでも、あの影が揺らぐことも消えることもついぞなかったのだけれど。
最初は、それが嫌になったからだと自身に理由付けしていた。誰か他に気になる人がいるのに、それを隠していつも通りに振る舞う孝太を見ているのが嫌になったからだと、ついさっきまで疑いもなくそう思い込んでいた。
薄っぺらな皮を剥いでしまえば、なんてことはない。私はただ、恐れていただけなのだ。終わっていく夏にも気付かず弱々しく鳴いていたあの蝉のように、去っていく彼に縋りついて泣くような無様な真似をしてしまうかもしれない自分自身に。だから、孝太が去って行く前に別れを切り出した。そんなストーリーが、本来の流れなのだ。
「……ばっかみたい」
口の端から漏れた呟きは、自分の声とは思えないくらい低く掠れていた。意識して足に力を入れていなければそのままその場に座り込んでしまいそうだった。
結局はこうやって思い出の中の彼を美化して、いつまでもあの日々に縋りついて、安っぽい感傷に浸っている。恐れていた事態と、一体何が違うというのだ。懐かしいなどという言葉を口にして、乗り越えたつもりで、本当は自身の立場も感情さえも受け入れようとしていなかったじゃないか。
悲しむ資格がないなんて都合の良いように言い訳して、泣きじゃくる弱い自分に耐えられなかっただけなのに。あの笑顔も、いつだって一口ミルクティーをくれるところも、子供っぽいところも、すべてが好きだったのだ。今だって、自分でもどうしようもないくらいに孝太のことが好きだ。
耳鳴りのように、未だ蝉の鳴き声は止まない。でも、それこそ当たり前なのだ。この声は、今でもまだ終わりを迎えようとしていない私自身の夏の日々の声なのだから。どこまでいっても、いつになっても、この感情から目を背けて、あの日々の終わりを受け入れない限り絶えることはきっとない。
ちかちかと、瞬く蛍光灯を見上げて、深く息を吐いた。そうでもしなければ、何かを叫んでしまいそうだった。それが、悲しみなのか彼に対する感情なのかは分からなかったけれど。我慢しなければそれらがぐちゃぐちゃになって、境界線さえもなくなってしまいそうだった。
そうしてしまえば、楽なのかもしれない。うやむやな感情ばかりを抱え、綺麗に整えた台本を追って、涙を見せない自分に同情していれば。だけれど、この醜さも、悲しみも否定して隠してしまったら、今私の胸を苦しくも温かくしてくれている感情さえもなくなってしまうのだ。
頭上のスピーカーから、ノイズ混じりに最終列車の到着を知らせるアナウンスが流れる。列車の二つのライトが、ぽっかりと闇の中に切り取ったように浮かんでいた。それが徐々に大きくなり、明るさも増し、湿った風と微かな冷たさを纏ったままホームへと滑りこんでくる。スカートの裾が風を孕んで、ふわりと泳いだ。静かに車体が止まると、車窓から零れる光が、色彩に乏しいコンクリートの地面に柔らかな模様を描いた。まるで溜め息を零すように、中途半端に温まった空気を吐き出しながら、扉が開く。
ぞろぞろと一様に重い足取りで車内から出てくる人々は、疲れた空気をまとっていた。溜め息をついていたのは、車両ではなくこの人たちなのかもしれない。一定のリズムでそろえられた足取りは、不思議なほどに乱れなかった。私はそんな集団に飲み込まれてもなお、ホームに立ち尽くしていた。
どん、と肩に走った衝撃に、情けなくもよろけてしまう。すみません、と口にした言葉は、人の群れの中に飲み込まれて、もまれにもまれて消えてしまった。誰もその言葉に反応しない。蛍光灯に照らされたホームには、もみくちゃになった言葉の響きと私だけが残される。
手の中で、またボトルの中身が重たげな音をたてて揺れた。その音に口の中の甘さが蘇ったような気がして、私はほとんど無意識に喉を撫でていた。忘れてしまったあの頃のミルクティーの味を思い出すことは、もう二度とないのだろう。それが良いのか悪いのかは結局のところ分からないのだけれど、それでもあの甘さはもう、今は遠く手の届かない夏の日々の中にしかないのだ。
「さようなら」
そう囁いて、私は手の中のミルクティーを宙に放り投げた。中身が残りすぎていたため、放り投げられた軌跡は綺麗な放物線を描くことはなかった。それでも、液体の揺れる音以上に重く鈍い音を響かせてゴミ箱の淵に当たると、スローモーションでも見ているかのような緩慢さで、ゆっくり、ゆっくり、暗い穴の中へと落ちていった。
最後の最後に底に当たったかのような一際鈍い音をたてた時、この日最後の電子音がけたたましくホームに鳴り響いた。数秒ミルクティーの辿った軌跡を眺めた後、私はホームに背を向け、足早に電車へと乗り込んだ。
車内は先ほど大半の人を吐き出したためか、乗客もほとんどいない。乗り込んだ車両には、酔い潰れて七人掛けの席を占領して眠り込んでいるサラリーマンしかいなかった。他に空いている席はいくらでもあったけれど、私は閉まったばかりの扉に体を預け、硝子越しにホームを眺めていた。車輪の軋む音がすると、ゆっくりと車体が動き始める。徐々にスピードを上げ、それに比例してホームが離れていく。それを車窓に頭をもたれたまま、黙って眺めていた。