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夏の弔い

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 あの日の遣り取りがあってから、いつも孝太から一口だけミルクティーをもらうようになった。今考えれば実に可笑しなことであったのだけれど、彼は私にあげることを、私は彼からもらうことをいつだって前提として買っていたのだ。

 別れたすぐ後は何ともなかったのに、今になってあれこれと思いだすなんて、酒のせいか今日はいやに感傷的だ。蓋に絡めた指に力を入れると、内心とは反対に実にあっさりと回った。そのまま、口元に浮かびかけた自嘲を隠すように、あるいはもう既に浮かんでしまった笑みを誤魔化すように、容器を傾けた。
 カクテルなどとはまた異なる甘さが、ゆっくりと喉を撫でて胃に流れ込む。それはもうあの頃と違って、不必要に甘い只のミルクティーだった。何が違うのかなんて、そんなことは自分でも分からない。そもそも、孝太からもらったミルクティーの味はもう記憶の中から欠落してしまっているのだ。
 しかし、どんな味だったのか覚えてなくても、舌の上を流れていった味が明らかに違うことだけは、自身の中でも驚くほどはっきりとしていた。それがはたして、良いことなのか悪いことなのか。深く考えないよう、私は噛みしめた微かな苦味を、舌の上にまだ残る甘さに包んで無理やり嚥下した。

 もうそれ以上飲む気には到底なれなくて、乱暴にボトルを鞄へと押し込む。早足に通り過ぎていく銀杏の木々のどこかから、蝉の鳴き声が弱々しく響いていた。こんな時期になっても、まだ生きている蝉がいたのか。思わず、肩越しに並木道を振り仰いだ。
 首筋を掠めて吹きぬけた風は湿気を含んでいるとは言え、少し前までのむっとするような熱はもう孕んではいない。背を震わせる、とまではいかないがアルコールに火照っていた体温を沈めるくらいには涼しい。未だ昼間は暑いとは言え、やはりもう初秋なのだ。蝉の声がうるさかったのも、もう随分前のことだ。

 土の中から出てくるのが他の蝉よりも遅くなってしまったのだろうか。人間みたいに、たまにそういう時間に疎い奴もいるのだと誰かが昔言っていた。なんにせよ、大多数の流れから置いていかれた蝉がどれだけ鳴いたところで、相手が見つかるわけもない。アスファルトの道路に反響した声はそこここに響いていても、そういう意味ではどこにも届いていないのと同じなのだ。
 ぎゅっと、ペットボトルの輪郭を鞄の上から掴む。たった一匹だけで鳴く蝉の声は、弱々しさに反して鼓膜の奥にいつまでも留まり、耳鳴りに近い感覚を私に与える。胸の中で複雑に絡まった糸が、心臓を締め付けているみたいだ。息苦しくて、苛立たしくて、そのくせ何とも言えない寂しさばかりが募ってしまう。

 孝太と最後に会った時は、今とはすべてが正反対だった。何もかもが吸い込まれそうなくらい高く澄み渡った空と、何重にも聞こえる蝉の鳴き声。鮮やかな青と、甲高い声に溢れていたのだ。そして、隣にはいつも通りお決まりの紅茶を飲んでいる彼がいた。
 美術の時間にパレットに広げた絵の具のような、そんな作り物めいた青さが空には広がっていて、御膳立てされたようなそれが私はいたく気に入らなかった。

 別れを切り出すと、孝太は酷く驚いた顔をしていた。大音響で響いていた蝉の声も、一瞬だけ消えたみたいだった。いや、実際にあの場に流れているものは音も、時間もことごとく消えていたのかもしれない。それぐらい彼が振り返ったその瞬間というのは、自分の中で一枚の写真みたいに完璧に静止しているのだ。
 どうして、と動いた彼の唇に私は気付かないふりをした。その問いに対する答えは、自分のことだからこそ十分すぎるほどに分かっていなければいけなかったのだけれど。澄んだ上空とは反対に、酷く曖昧で判然としなかったのだ。だからこそ、私は彼への答えも、ましてや返す言葉も持ってはいなかった。

 頑なな態度が崩れないことを知っていたからか、彼は二度同じ問いを繰り返すことはなかった。そう、だとか、ああ、だとかそんな吐息みたいな言葉を口にして、あの苦笑とも何とも言えない微笑みを浮かべただけだった。
 三年付き合ったのに、一夏の出来事みたいだったな。別れの最後を飾るにしてはなんとも奇妙な言葉だったけれど、不思議と孝太との思い出は夏の記憶に溢れているものだから、今考えれば存外言いえて妙だったのかもしれない。春も秋も冬も共に過ごしたはずなのに、一通り脳内で流れるコマ切れのフィルムの最後は蝉の声と空の青さで締めくくられるのだ。

 そんなことを考えていると、ふと、終点を迎えた思い出にいつまでも浸っている自分があまりに滑稽に思えて、頭を一振りして上空を仰ぎ見た。そこにあったのはもちろん青空なんかじゃなくて、微かな街灯が点った仄暗い夜空でしかない。中途半端な季節のためか目立った星座を見つけることはできなかった。
 瞼の裏に広がっていた青空は、星もまばらな夜空と走り抜けていった車の眩しすぎるライトに塗り潰された。けれど、未だか弱く鳴き続ける蝉の声は耳の奥にこびりついて消えてはくれない。そんな些細な事が苛立たしくて、コンクリートの硬い地面にヒールの跡を刻みこむみたいにして歩いた。規則的に続く甲高い音に小さな声はかき消されているはずなのに、それでもまだ何処かで鳴いているような錯覚を覚える。

 意地になって歩き続けて、いつしか足取りはほとんど小走りみたいになっていた。何をそんなにむきになっているのか自分でも分からないまま、無心で足を前に出す。そうして甲高いくせに間延びして聞こえる音を追っているうちに、いつの間にか銀杏並木は終わって駅前に出ていた。
 申し訳程度にビルに点ったネオンの中、浮かび上がったバスのロータリーは色褪せていた。都会のように深夜バスもないせいか、円形に区切られた空間は空っぽだ。人の流れは疎らで、既に駅前は眠りにつく準備をしているようだった。見慣れた筈の光景だったけれど、私は静まり返った駅ビルの前を、速度を緩めることなくそのまま通り過ぎる。

 ようやく速度を落としたのは、ホームに降りてからのことで、電光掲示板に映し出された時刻につい溜め息が零れてしまった。当初予定していた電車は、既に出てしまっていたのだ。残すは終電だけ。思いの外ゆっくり歩いている時間が長かったのだろう。電車が来るまであと十数分というのが唯一の救いだった。いくら寒くない季節とはいえ、ホームで三十分以上待たされるのは何としても避けたかった。
 見渡したホームにも向かいのホームにも自分と同じように手持無沙汰で立ち尽くした人が見受けられたが、皆黙って俯いてしまっているためか、駅全体が不気味な程に静かだ。呼吸の音すら大きく響いてしまいそうで、私はひっそりと息を吐き出した。

 耳を澄ましても、当たり前なのだけれど銀杏並木から遠いここには蝉の鳴き声など響いてはいない。響いてはいないのに、どうしてか目を閉じると鼓膜にあの小さな声が蘇ってしまう。響いていないのに、聞こえるなんてそこら辺の安っぽいオカルトじみている、と笑ってしまった。
作品名:夏の弔い 作家名:はっさく