夏の弔い
飲み屋ばかりが軒を連ねる通りは、夜の濃度が増し日付を越えようとしているこの時間帯になっても、静かになるどころかますます勢いづいている。赤提燈から洒落たバーの看板などが無節操に並んでいるくせに、不思議と違和感がないのはこの賑やかさのおかげもあるのかもしれない。
呼び込みの掛け声が飛び交う道を眺めながら、そんなことを考えていたが、急に左方向に傾いたバランスに現実逃避を兼ねていた思考はあっさり打ち切られてしまった。咄嗟に両足に力を入れて踏みとどまれたものの、重さに耐えきれない左肩が沈んでしまい、なんともおかしな姿勢になってしまう。
「ちょっとしっかりしてよ、文香」
溜息を吐くことすら億劫で、こちらにほとんどの体重を預けて今にも道路に座り込みそうな友人を促す。とろんとした両目は半分夢の世界に飛び立っているようで、なにが楽しいのか先ほどからうふふだとかえへへなどと笑ってばかり。その笑みすらしっかりしたものではなく、ふにゃふにゃしていて怒るに怒れなくなってしまうのだ。
「だいじょーぶですよぉ。もう一軒行こうよぉ」
「自分の足で歩けない人が何言ってんの。大通りに出たらタクシー拾ってあげるから、それで家まで帰れるね?」
「紗枝はー?」
「帰るに決まってるでしょ」
「えぇー」
「えぇー、じゃない」
もうほとんど足に力が入らないのか、文香はずるずるとだらしなく私に引きずられるがままになっている。ここがアスファルトではなく剥き出しの地面だったら、間違いなく二本の跡が残っていただろう。通行人のいい見世物になっているかとも思ったが、周りには大差ない人達ばかりで、飲みの後はどこもこんなものかと、荷物を抱えなおして苦笑した。
その後何度も転びそうになりながら、どうにか大通りに辿り着いた頃にはすっかり息が上がっていて、服の肩には見事な皺が寄っていた。それでもやはり怒れないのは、相手が酔っ払いゆえか。
そのまま歩道に横になってしまいそうな文香を植込みの淵に座らせ、車の流れに向かって大きく手を振る。いくら地方とは言え、やはり稼ぎ時の週末だ。大した時間を置かずにウィンカーを瞬かせ、タクシーが目の前に止まる。一言運転手に言いおいて振り返れば、酔っ払いはふらふらの足取りで自動販売機に縋りつきくだを巻いていた。側面をばしばしと叩きながら、会社での恨みつらみを吐き出している。
「うー、ちょっとあんた聞いてよぉ。課長ったらあたしに毎日毎日ぐだぐだと文句ばっか言ってさぁ」
「はいはい、それさっき私も聞いたから。タクシー掴まえといたよ、目的地もちゃんと言っといたから」
「おぉー! 紗枝ちゃんは優しいねぇ、お嫁さんにもらいたいぐらいだぁ。らびゅー」
「はいはい、どうもありがと」
両手を伸ばして、抱き上げてもらうのを強請る様子は、子供のそれと変わりない。仕方ないなぁと、口先だけでしぶってみせた。何だかんだ言っても、文香のこういう無邪気なところは嫌いではない。そして私の中で、嫌いじゃないというのは、もうほとんど好きと同義なのだと思う。
「じゃあ、後はお願いします」
バッグと一緒に小柄な体を後部座席に押し込む。じゃあねと夢見心地の文香に手を振るつもりが、いきなり身を乗り出した彼女の動きに虚を突かれた。中途半端な高さに上げていた手に、小さなペットボトルが押し付けられる。
「おごってあげるー」
「え、あ、あぁ。ありがと」
「じゃあねー」
閉められた扉の向こうでぶんぶんと大きく手を振る姿は、発車してしまうとすぐに見えなくなってしまって、最後には赤いテールランプの残像だけを残し、タクシー自体も見えなくなった。
暫くの間、馬鹿みたいにその場に立ち尽くしてしまった。そこそこ長い付き合いだが、相変わらず文香の行動は突拍子もなくて、驚かされることが多い。たぷり、とペットボトルの中で揺れた液体の音にはっと我に返った。
「あ……」
渡されたまま無意識に握りしめていたペットボトルに視線を落とし、そのラベルに書かれていた文字に、酷く気の抜けた声が漏れた。白い蓋と揃いの薄っぺらなプラスチックには、コントラストを引き立たせるためか青インクでミルクティーとプリントされている。ストレートにミルクを混ぜているためか、琥珀色よりも幾分か柔らかな色合いをしていて、それがゆったりと揺れる音に合っているように思えた。近くの街灯にかざしてみると、入れ物のプラスチックが鈍く光を反射した。
「懐かしいなぁ」
呟いてから、まだ二か月ほどしかたっていないじゃないかと、と頭を振って歩きだす。それでもやはり気を抜くと続けて同じ言葉ばかりが口をついてしまいそうになって、意図的に唇を引き結んだ。しかし一旦口にしてしまった言葉は、声に出さなくても心臓の近くの目には見えない部分にいつまでも響く。そうして、瞬きの度に瞼の裏の暗闇に鮮やかに過ぎ去った日々をよみがえらせてしまうのだ。
見上げた視線の先では、街頭の仄暗い明かりに照らされた街路樹の銀杏が枝を四方に伸ばしている。その人工的な光の円の中、微かに葉の先が緑色から薄い黄色へと変わりつつあるのが見て取れた。二か月前までは濃い緑一色だったのだ。時間の流れはどんな状況であれ無関係ではいられないのだと、そんな当たり前のことを実感させられ、深く深く息を吐いた。それは唯の溜め息だったのかもしれないけれど、意識してその言葉を脳内から除外した。
孝太、と吐き出す息に紛れるような小さな声で囁く。相手がいないのに囁くだなんておかしな言い方だけれど、確かに私は囁いたのだ。懐かしさと胸中に絡まった糸みたいな不確かな気持ちを混ぜ合わせた、そんな何とも表現し難い声で。
手の中に納まったままの紅茶は、二か月前隣を歩いていた彼が好んで飲んでいたものと同じ。紅茶と言うと決まってそればかり飲んでいたものだから、自然と覚えてしまった。
「よくそんな甘ったるいもの飲めるよね」
あまりにいつも飲んでいたものだったから、私は呆れるのを通り越していっそ感心してしまい、孝太にそう問い掛けたことがあった。その時、彼は何と言っていいのか言葉を探し、困ったように眉尻を下げて笑っていたのを思い出す。瞼の裏に浮かんだその笑みは、別れてしまった今でも、嫌いではなかった。
「甘くないと飲めないんだよ、紗枝こそよく何もいれずに飲めるよな。コーヒーもブラックだしさ」
「お子様の舌と一緒にしないでよね」
「お子様って、なんだよー。そんなに言うなら一口飲んでみろって。これはミルクティー通の俺、一押しだからさ」
「ペットボトルの紅茶しか飲んだことないくせに。それって、当てになるの?」
「もっちろん」
アスファルトの夜道に浮かんだ街灯の白い円を通り抜ける度に、自信満々に頷いた孝太や訝しむ自身の声など、そんな些細なことまでもが不思議なほどのリアリティをもってよみがえる。ともすれば、もう一人の自分と彼が本当に今、目の前で話しているような錯覚を覚えてしまいそうだ。