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空色挽歌

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「ああ、そういえば。置いてあったな、下にも。よく分からないところで、まめだな」

 父に呆れて、溜め息をついた修一の声はもういつもの調子に戻っていた。瞳にも感情の欠片が滲んでいて、明希はほっと安堵した。「飲んでみる?」と青い光の帯に目を細めながら、軽い調子でグラスを振ってみせる。もうほとんど融けてしまった氷がぶつかり合って、耳を澄ませなければ聞こえないくらい小さな音をたてる。振動で散った雫が、太ももを伝い落ちた。

 修一は何も言わなかったけれど、視線を見れば心情を理解するのは容易かった。あまり残念にも感じず、明希は哀れにも拒否されてしまった炭酸を喉に流し込んだ。歯が縁に当たって、微かに硬質な音がした。それだけが唯一、室内で涼しげなものだった。喉を流れ落ちていく液体は、想像より甘ったるくなかったけれど、余分な水を含んでしまっているせいで薄い。その上生温くて、とてもじゃないが飲めたものではなかった。
 こんなものを好んで飲んでいたのだから、母親の嗜好というものはよく分からない。しかもなぜか、夏に限って飲むのが彼女なりの流儀だったらしく、蝉が鳴き始める時期になると近くの酒屋から大量に買ってきていた。それも、去年までの話なのだけれど。唐突に訪れた非日常の最中、半端な量のソーダが冷蔵庫に残っていたのは、何とも可笑しな感覚を誘ったものだった。

 吸い込んだ空気が、さっきよりも重たさを増したような気がして、閉じられた硝子越しに空を仰ぎ見た。さっきまであれ程晴れ渡っていたと言うのに、寂しがり屋の雲は一箇所に皆で集まって巨大化してしまっていた。白から灰色へとあまり喜ばしくない変化も伴っている。

「雨、降ってきそうじゃない?」
「別に構わないだろ。どうせ、あっちまでは斎場の方でバスが出るんだ」

 口を動かしながら、しかし飲み込んだはずの炭酸の刺激がまだ舌を包んでいた。喉の内側から小さな爪で引っ掻かれているみたいに、ぴりぴりとするのだ。とっくに飲み下した筈なのに、いつまでもその小さな痛みが止まらなくて、そっと喉を撫でた。しかし、当り前のようにこれといって変わったものはない。汗で湿った皮膚が手にへばり付いて、不快な思いをするだけだった。
 修ちゃん、明希ちゃん。年甲斐もなくはしゃぐ明るい声が鼓膜の奥で響いた。思春期に入って扱いがどんどん難しくなる兄に対して、それでも構わず母はいつも自分たち兄妹を「ちゃん」付けで呼んでいた。恥ずかしいから止めてくれ、と再三言っても直らない癖に、流石の修一も諦めて嗜める程度になっていた。どちらが親か分からないな、父が言ったその言葉に盛大に明希は笑ったものだった。

 しかし、その記憶も今では何処か遠くに感じる。窓の外から聞こえる蝉の声みたいに、ぼんやりとしていてちゃんと像を結んでくれない。つい数年前の話なのに。ぼろぼろと、記憶から色やら声やら大事な要素が抜け落ちていっている様だった。
 ぽつり、と。咲き誇った桔梗の白い花弁に水滴がぶつかって、葉が不安定に揺れた。立ち直る暇も与えず、小さかった水滴は集団になって地上へと落下してくる。恵みを待ち望んでいた大地は、一気に色を濃くしていった。

「修兄」

 呆然と呟いた声に、修一が訝しげに振り返る。昔、母に倣って口にしていた呼称を久しぶりに形にする。いつ頃から口にしなかったのか覚えてすらいない言葉は、口の中の違和感と相まって、酷くその場に馴染まない。暫く空間の中で浮かんでいたかと思うと、天井の木目へと吸い込まれていってしまった。
 修ちゃん、明希ちゃん。遥か昔、雨ばかりが続く夜に、母が語った話が蘇る。母の顔さえも曖昧になってしまった記憶なのに、どうしてか物語を語る声ばかりは鮮明に思い出せた。
 もしかしたら、その話を聞かされた時に自分の頭の中で、母の声ごとレコードに録音されたのかもしれないと明希は夢想した。情景も何もかもが薄れてしまっても、話の内容だけは正確に、語った母の声で蘇るのは、そのためなのかもしれなかった。

「空が泣いてる」

 あのね、雨が降るのはお空が泣いているからなのよ。どうして、と不思議でならないと明希が聞き返した横で、修一は馬鹿馬鹿しいと今と同じように鼻で笑っていた。母はそんな冷たい息子の態度を微塵も気にすることなく、実に楽しそうに、それはそれは子供以上に楽しそうに、それはねと続けたのだ。

「空が、海に帰りたいって、泣いてるね」
「あんなもの、母さんの作ったおとぎ話の類だろ」

 ぶっきらぼうに言い捨てた修一に小さく頷き、そうなんだけどねと囁く。けれども、空から視線を外すことができなかった。窓に当った水滴が、脆くも弾け散っていく。空の流す涙は、ソーダの泡のように儚い。冷たい硝子に額を預けて、明希はそっと目蓋を下ろした。じんわりと硝子の冷たさが染み込んでくるのに、胸の奥の方は驚く程に熱かった。それはね、母の声が蘇る度に胸の熱は上がっていくようだった。
 お空はお母さんである海に帰りたがってるからなんだよ。でも、お空が海に帰っちゃったら世界は真っ暗になっちゃうでしょ。だから、お空はお母さんの所にずっと帰れないの。でも、帰りたくて帰りたくて我慢できなくて、こうやって時々泣いちゃうんだよ。

 空の泣き声は、弱まるどころか時間が経つにつれて勢いを増していっている。こんな話をよりにもよって今日思い出すなんて、と明希は唇を引き結んだ。少しでも気を抜いてしまったら、何かが零れ落ちてしまいそうだったのだ。その何かが分からないからこそ、酷く恐ろしい。
 帰りたい、ひっそりと胸の中だけに響いた声は、空の気持ちを代弁したものだったのか。それとも、純粋に自身から零れ落ちたものだったのか。明希が自分自身で答えを見つける前に、まるですべて見通していたかのようなタイミングで修一が口を開いた。

「どれだけ泣いたって、空が海に帰るなんてことありえないだろ」

 はあ、と実に年に相応しくない重く長い溜め息をついて目を細める。その内側に、また自分の知らない何かが浸食していることに気付いた明希は、無意識に体を強張らせた。自然、言い返す言葉に余分な力が入る。

「そんなこと、分かってるよっ」
「だったら、分かれよ」
「だから、分かってるって!」

 きっと睨み付けた先にいるはずの修一の姿がぐにゃりと歪む。ああ、ちくしょう。誰に言っているのかも判然としない罵声を、何回も心の中で繰り返す。ちくしょう、ちくしょう。溢れ出してしまう涙を見せたくなくて、明希は最後の抵抗とばかりに俯いた。ぱたぱたと雨とは違った音を立てて、雫は畳へと飲み込まれる。
 一年前の今日が最後だと思っていたのに。真っ白な衣装に包まれた母が、衣装と同じように白い灰になった時に流したもので終わりにしようと思っていたのに。それなのに、一回溢れてしまった涙は止まりそうもなかった。頬を流れ落ちて、顎先から落ちていく。ちくしょう、今度の言葉はぐちゃぐちゃに歪んで口から吐き出された。

「どれだけ泣いたって帰れないんだ」
作品名:空色挽歌 作家名:はっさく