空色挽歌
美術の時間に使ったコバルトブルーをぶちまけたら、ちょうどこんな感じになるのかもしれない。大きく枠取りされた窓の外、苛立つほどにゆっくりと雲が流れていく空を見上げて、そんなことを思った。
ローテーブルの上に置かれたグラスからは、しゅわしゅわと涼しげな音がする。上へ上へと昇っていった小さな気泡は、表面に到ると抵抗する様子も見せずに、いとも容易く弾けてしまう。そういえば、そんな儚さを語った有名な古典の冒頭があったっけ。イグサの匂いもすり減った畳に頬を寄せ、明希は長いため息を零した。
肺いっぱいに吸い込んだ空気は、微かに湿っていて、夕立ちを予感させた。時折、庭の木々の狭間から覗く道路を、黒い服を着込んだ人々がぽつりぽつりと行き来している。雲と同じテンポでゆったりと歩いては、我が家の門に吸い込まれるようにして入ってくるのだ。
舗装されたアスファルトの表面は、熱を享受するばかりで発散することはない。陽炎が立ち昇り、世界が揺らぐ。黒い服も、僅かに吹く風に花弁を震わせる真っ白な桔梗も、熱に揺らいで解かされ、境界線さえも曖昧になってしまいそうだ。
降り注ぐ日光は、制服から出た腕や足を容赦なく焼いていく。じりじりと焼かれた個所の上げる悲鳴が、聞こえてきそうだった。あまりに皮膚が熱を持ってしまって、熱いのを通り越して痛いくらいだ。ブラウスの白が日の光を反射させて、更に真っ白に浮かび上がり、眩しさに目を開けていられない。瞳を閉じた拍子に、こめかみから伝い落ちた汗を拭うのも億劫だ。夏用の薄手のスカートが、足に張り付いて不快でたまらない。
全開になった窓から望むだけの風が入ることはなく、暑苦しい蝉の鳴き声ばかりが流れ込んできて、一層涼しさを遠ざけていた。時折、蝉の声が途切れた空間を埋めるかのように、別室から形式ばった父や親戚たちのやり取りが聞こえる。聴覚が発達している動物ならきっと、ひそひそと顔を寄せ合っては姿を見せない明希について、あれやこれやと情報交換に勤しんでいる声なんかも聞こえるのかもしれない。
鼻先をうずめた制服からは、知らない匂いがする。ほんの数日前も、いつもと同じように袖を通して通学していたのに、学校の匂いも、帰りに寄った本屋の匂いも、家の匂いも消えてしまっている。全然知らない、苦いような煙たいような、そんな匂いばかりが鼻につく。
今の自宅と一緒だ。いつも懸命に取り繕っていた空気は、今日に限って上手く循環してくれないらしい。黒と白ばかりに包まれた我が家には、神妙な顔をした親戚や関係者が詰め込んでいる。いつもは広すぎるくらいの家は、その隙間のために、余計なものまでどんどん取り込んでしまう。様々な感情がぎゅうぎゅうに押し込まれて、慣れ親しんだはずの場所が息苦しかった。
背中にべったりと張り付いた布の感触が我慢できず、もぞもぞと上半身を起こす。暑さのために、視界がぐるぐると歪んで、思わず小さなうめき声を洩らしてしまった。結構な時間放置してしまったグラスからは、もう先程までの勢いのある音は聞こえない。思い出したように、ぽつりぽつりと一つ二つ泡が浮かんだかと思うと、そのまま明確な形を保てないまま消えていく。弾ける、なんて表現とは正反対の、弱々しい消え方だ。
グラスの表面には、うっすら汗が浮かんでいる。ほとんどの水滴は重力に耐えきれずに落下し、机に円形の跡を描いていた。グラスを掲げ、青いソーダ越しに空を見れば、太陽の光に透かされた液体は淡く輝いて、なんだか神聖なものみたいだった。光の帯が、真っ青な液体の中でいびつに歪んでいる。
「お前、なにぼけっとしてるんだ」
唐突に、沈黙を守っていた襖が乱暴に開かれた。そこから顔を覗かせた青年は、明希の姿を認めるや否や、露骨に眉をしかめた。ぎょろりと、大きな瞳が上から威圧的に睨み付けてくる。男には勿体無い大きさの目だよなぁ。その視線を真正面から受けていながら、明希は未だぼんやりする思考の隅で羨ましいと嘆息した。
母親似のその目を、彼は昔から気に入っていなかったっけ。今はどうなんだろうか、開襟シャツから覗く小麦色の肌を眺めながら、明希は胸中に浮かんだ言葉を口の中だけで転がした。なにもわざわざ、今日という日に聞くことでもないと、理性が囁いたからだ。代わりに、へらへらと意味のない笑みを浮かべて、これまた特に意味のない言葉を吐き出す。
「暑くってさ。野球三昧の兄貴みたいに慣れてないんだよ。か弱いしさ、私」
しかし、やはり長い付き合いの賜物か。その台詞の何処にも意味のないことを理解した兄の修一は、何も言わずに鼻先であしらっただけだった。づかづかと大股で室内を横切ったかと思うと、涼を求めるために折角開けていた窓を、ぴしゃりと閉めてしまった。あれだけうるさかった蝉の声が、途端にぼんやりと遠のく。擦り切れた畳が、修一の体重にぎしぎしと軋んだ。
「いつも子供扱いするなって駄々をこねるぐらいなら、お茶だしぐらい手伝え。叔父さんや叔母さんが来てるんだ。挨拶くらいしろ」
「私あの人たち嫌いなんだよねぇ」
「誰も好き嫌いなんて聞いてない。顔合わせて少し喋れば済む話だろ」
「それさえも嫌って言ったら?」
「この暑苦しい部屋にずっといるんだな」
すげなく言い捨てられ、明希は勘弁してくれと天井を仰いだ。その拍子にまた一粒汗が毛先から零れ落ちて、畳の繊維に吸い込まれていった。見上げた天井には、家の古さを表す黒々とした木目がいくつも刻まれている。まだ小学校にも上がっていなかった時分、夜になると、あの木目が見下ろしているようで怖い、と泣いて母親の布団に忍び込んだことを思い出す。
布団の中の、何とも言えない暖かさと安心感は、一体何からもたらされていたのだろう。やはり、母親がいたから? 浮かんだ仮説を確かめることはもう二度とできない。確かめるには、冷たい土の中に入らなくてはならない。それは、流石に無理だ。自分の考えの終着点に、明希は小さく声に出して笑った。
「とうとう頭が沸いたか」
「こんな可愛い妹つかまえて何を言うかね、兄貴は」
「近所の犬の十分の一でも可愛さがお前にあったら、俺もこんなこと言わないだろうな」
口調はいっそ穏やかと言ってもいいくらい落ち着いているのに、言葉の切っ先の鋭さったらない。我が兄ながら感激してしまう。へーへー、わるうございましたね。唇を尖らせて、明希は修一に見えないように舌を突き出した。しかし隠れてやったはずが、ばっちり見つかってしまい、えへへと締まりのない笑みを浮かべる。
ふと、修一が目を細めた。一瞬身構えてしまった明希だったが、その視線の先が自分の手に握られたグラスにそそがれていることに気付く。どうしたんだ、それ。静かな、感情を削ぎ落としたような、怖いぐらいに静かな声だった。長い睫に縁取られた瞳を見上げてみるけれど、そこも声同様何の色も映してはいない。
こういった瞬間の修一が、明希は酷く苦手だった。兄の姿をしているのに、その実、内側から違う何かに支配されてしまったみたいで、言葉に詰まってしまう。
「父さんが、昨日帰りに買ってきたみたい。母さんが……好きだった、から」