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空色挽歌

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 静かに呟いた修一は、明希の前にそっと膝を着いた。顔を上げてその顔を見たけれど、何一つとしてちゃんとした像を結ばない視界では、兄の顔を確かめることさえできない。ただ、その声は明希が苦手とする、修一でないものの声だった。言葉の途中までは。

「お前も父さんも……俺も、帰れない。戻れやしない。だからいい加減、泣くな」

 泣くなよ、重ねられた言葉は所々ひび割れていて、その隙間から兄の心情がじわりと滲み出した。泣くな、と言ったこの兄が涙を流すところを、明希は見ていなかったことを思い出す。
唐突に我が家に非日常を連れて来た電話に出た時も、病院のベッドで動かなくなった母を見た時も、同情の言葉ばかりに溢れていた葬式の時も、修一はいつも真っ直ぐ前を睨み付けて、俯いたことは一度もなかった。何の感情も浮かべない声と目を、あの時修一はしていたのだ。だから、明希はそんな兄が怖かったのだ。
 だけれど、今の修一の口から零れ落ちた言葉に、明希は漠然と理解した。それは当たり前だったのだ。兄はあの瞬間、兄ではなかったのだ。滲み出そうになる感情すべてを押さえつけて、何も感じていないような、そんな自分を貼り付けていたのだ。

 兄貴、呆然と呟いた言葉に、何だと返された声はもうひび割れていなかった。見上げた目にも、何も浮かんでいない。まるでさっき一瞬滲んだ心情も感情も、何もなかったみたいだった。

「父さんにいつ出発するのか確認してくる。お前も居間に来て、挨拶しとけ。どうせそろそろ出るだろうからな」

 さっさと立ち上がった修一は、来た時同様大股で部屋を横切り、中途半端になっていた襖を小気味好い音を立てて開けた。そうしてそのまま、ためらいもなく出て行こうとした後姿に、明希は涙で歪んでしまった声を上げた。

「兄貴」

 入り口から一歩踏み出した状態で止まった背中は大きかった。昔怪我をした明希をしぶしぶ背負って帰った時に、目の前に広がっていた背中よりもずっと。その背中が、今は微かに、本当に微かに震えているのだ。そのことが、呼び止める以上の言葉を明希から奪ってしまった。

「今日はその呼び方のままでいろ。頼むから、さっきみたいな呼び方は止めてくれ」

 それだけ言い切ると、修一は振り返ることなく去っていった。じっとりと湿気に包まれた空間に明希は残された。卓上のグラスの中身には、もう泡を生み出す余力すらない。ただ、晴れ渡った空と同じ色をした液体が黙ってわだかまっていた。
 未だに喉の痛みは消えない。ぴりぴりと内側でないているのだ。鳴いているのか、泣いているのか。どちらなのか明希には分からなかった。

 見上げた天井から、黒々とした木目がこちらを見下ろしていた。だけれど、たとえそれを怖いと、夜の闇が怖いと言っても、もう明希を守ってくれるあの暖かな空間はないのだ。笑って包み込んでくれる腕の中に、戻ることは、できない。
 外は依然として雨に包まれていて、蝉の声さえもかき消して泣きじゃくっている。汗に湿った指で喉元に触れる。明希の中で飲み込んだ空がないている。泣くこともできなかった、あの背中の代わりのように。帰りたい、帰りたいと。
作品名:空色挽歌 作家名:はっさく