白黒ドリップ
私が黒く染まっていくのか、最初から白くなかったのか――
私は自分の部屋にこもり、負けた理由を考えた。
それまでの二年半、ずっと勝っていた。なのに、突然負けた。一番大事で、一番負けちゃいけない場面で負けた。
どうして?
私は考えたくはなかった。それ以上考えると、ひとつの答えにしか辿りつかない。
そんなことはない。彼は私の隣にいて、私を正面から見て、私を私のままでいてくれて、私と正直に向きあってくれる人だ。そんなことをするはずがない。
そう思いたいのに、私の頭は、人一倍オセロに詳しい厄介な私の頭脳は、冷静に、私の意思とは無関係に計算結果を弾きだした。
『彼がそれまで、わざと負けていた』
考えてみれば分かることだ。むしろ何故気付かなかったのか。
父親ですら腫れ物に触れるような年の女の子に、彼氏でもなく兄弟でもない彼の出来ること。親同士のつながりで知り合った女の子を傷つけず、なおかつ楽しませる為の方法。
優しい彼のしそうなことだった。
それまでだってケーキの苺を譲ってくれたり、彼も苦手である怖いDVDを一緒に見てくれたりした。そう、彼はとても優しい。多分、誰にでも。
だから、私はそれを独り占めしようとした。あの時じゃない。それ以前からずっと、オセロという鎖で彼をつなぎとめておきたかった。オセロを勉強したのは彼に勝つ為じゃない。彼と戦う為、戦い続ける為。そう、諦めない限り、彼はずっと私のそばにいてくれる。
そのことに彼も気づいていたのだ。だから、ある日を境に『子供』とは言い切れない中学生になった時に、わざと負けたんだ。ずっと続くなら、勝たせた方がいい、と。
気づくと私は泣いていた。
嫌だった。何が嫌かわからないぐらい、何かが嫌だった。
たった一欠片残った理性で、私は声を殺した。階下にいるお母さんに聞こえないように声を出さずに、ベッドに突っ伏して涙を流した。
叫びたかった。わめきたかった。
涙をどれだけ流しても、それ以上に心の中で何かが大きく膨らんで破裂して、息が出来なくなって、布団に顔を強く押し付けて、嗚咽を漏らした。そうしている間にも、また心の中で何か大きなものが次から次へと破裂していく。
その中には、高校の制服を得意げに見せに来たカズ兄の姿があった。大学入学を喜ぶ姿、ひげを伸ばしてお母さんに怒られる姿、お寿司を食べながらスーツに醤油をこぼして焦る姿、どれもこれ、笑っていた。私の大好きな、好きなんてきれいな言葉じゃ言い表せられないほど私が全てを託した笑顔。
それがどれもこれもが心の中で破裂していく。カズ兄! カズ兄! カズ兄!
最後に、舞い散るカードの中で驚いた表情を浮かべる中学生のカズ兄がいた。それは一際大きく、とても大きく膨らんで。
パチン!
その衝撃で私の心は吹き飛んで、悲しみも怒りも感情もなくなってしまった。
もう、いい。
終わりにしよう。どうでもいい。なにもかも。
私が布団から顔を上げると、涙は止まってた。目はきっと腫れているだろう。でも、どうでもいい。
全てがバカバカしくなった。
お母さんのことも学校のこともカズ兄のことも自分のことも。
私は勉強机の引き出しを開けた。その中からカッターを取り出す。
何もかも全部、どうでもいい。
チキチ、カッターの刃を出そうと思ったけれど、ほんの少ししか出ない。だいぶ短くなっていたようだ。
替えの刃はどこにあっただろう。引き出しの中を探してみたけれど見当たらない。本棚の引き出しだろうか。
私は部屋の一角に備え付けられた大きな本棚の一番下にある引き出しを開けた。
あったあった。プラスチックのケースに入ったカッターの替え刃だ。その場で一枚取り出して、カッターの刃を入れ替える。
これが最後の作業かと思ったけれど、もうどうでもよかった。これで終わる。
チキチキチキチキ、カッターの刃を出してみると丁度いい具合になった。
さて、どこを切ろう。手首はカッター程度じゃ簡単に切れないって言うし、首にしようか。よし、そうしよう、首にザクッと刺せばきっと死ねるはずだ。
私はカッターを両手で構えて、刺しやすいように首を少し上げた。
その時、視界に本棚が映った。
『誰でも分かるオセロ』『オセロ入門』『図解ゲーム理論』『オセロ上級編』……
大きな本棚の端から端まで全てオセロの為の本で埋まっていた。私の一生はオセロで始まり、オセロで終わるのか。
なんて小さな人生だ。ちっぽけで、しょぼくて、消す価値すら感じない。
「ダサ」
私の喉が声を出した。思わず出てしまった言葉だった。
なのに次の瞬間、頬に冷たいものを感じた。また涙だ。
ズキン!
どこかに消えたはずの心がいつのまにか私の中で悲鳴を上げた。消えたわけじゃなかった。私の中で小さく、とても小さく押しつぶされていたんだ。その心が解放された反動で爆発する。
私は叫んでいた。一瞬で音の意味を成さなくなるほどの大声で、喉を走る激痛にも止まらないぐらい大きな衝動をめいっぱい大きな口をあけて、それでも足りないぐらいの大きさで、ただただ叫んだ。
すぐに慌てた足音が部屋の外から聞こえてお母さんが「どうしたの!」と飛び込んできた。
記憶の中より少しだけ皺の増えたお母さんを見た途端に、私は立ち上がることすら忘れた赤ん坊のように四本の手足で擦り寄った。邪魔になったカッターを投げ捨てて、お母さんにすがりつく。恥も外聞もなく、力いっぱいしがみついて、私は泣いた――
パタン。
最後の一枚を綿貫がひっくり返した。落ち着くように一度大きな呼吸をする。
「負けたよ」
その言葉に私も大きく息を吸って、吐いた。危ない場面もあったけれど、どうにか勝てた。頭が鈍く痛む。めいっぱい使った時の症状だ。
「で、どうする? 今でも俺と付き合いたいか」
綿貫の言葉に私は首を横に振った。その為に戦ったわけじゃない。元々、私の弱さが招いたことだ。
「あんなみっともないこと、もう言わないわ」
勝負で勝ったら、なんて言わず素直に伝えれば良かったんだ。そうすれば同じ断られたとしても、もっと違った結果になったに違いない。
「そうか」
ひっくり返しあいはもう終わり。私は深く息を吐いた。
「あんたはせいぜい、私以外の女子高生いじめて遊んでなさい」
噂、いや実話として聞いている。
『綿貫先生は、告白してくる女子とオセロで勝負している』
体よく断る手段を覚えちゃって、悪い大人だね。
綿貫は私の言葉に何か言いたそうだったけれど、結局、何も言わず席を立って、部屋を出て行きかけて「ちょっと待ってください!」永井とかいう女子の声にその足が止まった。
空気も読めないバカか。ほっとけよ。私と綿貫はあんたたちみたいなのとは……
「綿貫先生、それでいいんですか?」
彼女は席から立ち上がって、綿貫先生の元へと歩いて行った。『それでいい』も何も終わってんだよ。
綿貫も怪訝な表情で彼女を見ている。
「だって、綿貫先生、ずっと木田さんを待ってたんじゃないんですか?」
綿貫の目が驚きに開かれた。その顔を見た瞬間、私の中で、また私の意思とは無関係に頭が計算を始める。