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白黒ドリップ

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「私は詳しい事情を知らないですけど、そうじゃないんですか?」
 あの女、何者だ。私たちの事情なんて知っているわけがない。せいぜい、さっきの会話ぐらいだ。いや、まさか、さっきの会話だけで?
 綿貫の表情を見れば、それが事実である、と私には分かった。
「あ」それが事実だとすれば、去年、私を負かしたのはなんだったんだ。
「カズ兄」私は懐かしいその名を呼んだ。
「なんだ、レイコ」カズ兄のその声を聞いた瞬間、私の頭脳は答えを弾きだした。
「私が手加減されるの嫌いなの知ってた?」
 カズ兄が笑った。数学教師ではなく、カズ兄の笑顔だった。
「当たり前だろ。もう蹴られたくないよ」
 カズ兄は手加減をしていたわけじゃなかった。そう、あの日、本当にカズ兄は強くなっていたんだ。仕事で忙しい中、ずっと私に負け続けて、それでも少しずつオセロの勉強をして、あの日、強くなったんだ。
「あの日、私にとってすごく大事な日だって分かってた?」
 自分の情けなさと、カズ兄の優しさに涙が出た。
「ああ、もちろん」
 それでも、この真面目な男は、優しいからこそ。
 私の思考は、その先を考えるのをやめた。体が椅子から立ち上がり、その胸に私は勢い良く飛び込んだ。記憶の中より随分狭い。
 けれど、私を包む暖かさはあの頃のままだった。

   * * *

  「華麗フライング」

 っくぅ、暑い! まだ夏は終わってないなあ。
 防波堤の先っぽから眺める海は穏やかに空と同じ青色に染まり、防波堤の付け根側に目をやれば緑に染まる山が海にひっくり返って写りこんでいる。
 半ば、祈りを込めて夏と同じショートパンツを履いてきたけれど、それが通じたようで吹き抜ける風も暖かい。
「浅井さーん」「ちょっと浅井ー」
 同時に呼ばれて、アタシは思わず麦わら帽をかぶった二人の顔を見比べた。永井の私服はジーンズのパンツルック。『魚釣りに行く』と親御さんと相談して服を決めたらしい。とても彼女らしい話だ。
 とりあえず手前の永井の方に、と足を向けたら「あ、木田さん先どうぞ」と木田に振られた。いいやつめ。
 木田はお嬢様丸出しのワンピースを着ていて、心のそこから『お前は何しに来た』と言いたくなった。が、本人は大真面目に選んできたそうなので、キツイ事も言いにくい。悪いやつじゃないんだが。
「あ、永井さん、ごめんね」と木田は永井に軽いチョップを送った。手にした竿を上げながら「カゴが空っぽになっちゃったんだけど」とアタシに向けて振る。釣り糸の先についた手のひらサイズの金カゴが遠心力でアタシに向かってきた。
「おっと」片手でそれを受け止めて掴む。「竿はゆっくり動かせよ」と軽く注意すると、ちっとも反省してない表情で「受けとってくれると思ったのよ」と頬を少しふくらませた。
 悪いやつじゃあ、ないんだよな。そのはずなんだよな。永井がそう言うんだから嘘ではないんだろうが、どうもやりにくかった。相性の問題なのかもしれない。
「そのクーラーボックスにエサ入ってるだろ」
 木田がタオルを敷いて椅子替わりにしているクーラーボックスを指差すと「そうなの?」と立ち上がった。身動きする度に長い竿と釣り糸が宙を動きまわってうっとおしい。
「いいから、とりあえず竿を置けよ」
 アタシの言葉に木田は長い竿を持て余すように、もたもたと地面に置いた。気まぐれで素直になるからまた困る。アタシは手にしたカゴを木田に差し出した。
「もう一回エビをカゴいっぱいに詰めて、やり直しな」
 カゴを受け取りながら木田は「え!」驚いた表情を浮かべて固まった。
「どうした?」別に変なこと言ってないだろう。
「だって、今、私まだ何にも釣ってないですわよ!」
 ですわよ、って普段、そんな喋り方してないだろ。
「まあ、運が悪かったんだろ。もっかいやればいいじゃねえか」
 何に驚いてるのかよく分からん。海の町に住んでいて魚釣りもしたことないのか。
「エビがもったいない、とかそういう発想は無いんですか?」
 質問というより、さも正しいのは自分だ、と言わんばかりに胸を張っている。
「ねえよ。そのエビ、カゴにめいっぱい詰めて十円ぐらいだぞ」
 オキアミは冷凍ブロックで五百円だからそんなもんだ。もったいない、なんて小遣いの少ない小学生だって言わない。
「ちなみに今日釣れるのは一匹いくら?」
 人差し指を立てながら木田が真剣な顔をしている。めんどくせえやつだな。
「アジだから、小さくても百円ぐらいすんじゃねえの?」
 近所のスーパーの鮮魚売り場を思い出しながら答えると、木田は小声で「百円だから一回十円で」と何やら計算を始めた。はあ、これだからオセロバカは。
「気が済んだら、てきとーに続けてくれ」
 木田はクーラーボックスの蓋を開けてオキアミの冷凍ブロックを見ながら本格的に考え始めた。そのままほっといて、アタシは笑っている永井のとこへと向かった。
 クーラーボックスは一つしかないから、永井は安いビニール椅子に座って釣り糸を海に垂れている。
「木田さん、計算が好きなんですね」
 さっきのやり取りが聞こえていたのか、邪気のない笑顔を木田に向けていた。彼女にそう言われると、オキアミをケチる話が良い話に思えてくるから不思議だ。
「それで永井はどうしたんだ?」
 呼んだ理由を尋ねると彼女は「へへへ」と少し照れながら「誘ってくれてありがとね」と笑った。心なしか今日は顔色が良さそうに見える。
「別に気にすんなよ。毎週この時間は暇だったし」
 昼食の時間を過ぎると食堂も暇になる。夜の仕込みは朝の内に終わらせておいたから、のんびりしてから帰ればいい。
「浅井さんは、よく魚釣りするの?」
「簡単そうなやつだけな」
 釣りはいい。一人で出来るし、時間もかからない。アタシの答えに永井は目を輝かせた。
「じゃあ、キスとかカレイも釣ったことあるの?」
「いや、あれは簡単じゃないから、やったことないな」
 その二つは投げ釣りだ。アタシは海を覗きながら釣るのが好きだから、見えないとこまで飛ばす投げ釣りは趣味じゃない。永井は笑顔のまま顔を曇らせた。器用なやつだ。
「キスとカレイ好きなのか」
 アタシの問いに、また少し照れてコクンと頷いた。
「あんまり食べたことないんだけど、前に食べたのがすっごく美味しくって」
 前に? キスやカレイなんて時期になれば普通に食卓に上る珍しくもない魚なんだけど。あ、そうか、病院じゃ出ないのか。
「もう少し寒くなったら、オヤジが釣りに行くけど、釣れたら分けてやろうか」
 この辺だとスーパーでも売っているけど、鮮度でいえば釣りたてには敵わない。
「ほんと!? ありがとう!」
 大げさに喜ぶ永井の顔を見ていると『自分で釣ってみるか?』と誘った時の反応が見てみたくなった。その為には、まずアタシがやり方を覚えないとな。
 いつ覚えようか。明日は空手があるから無理として、月曜からはまた放課後が埋まっているし、また来週の土曜かな。うーん、今夜にでもオヤジの都合を聞いてみるか。
「ちょっと浅井! 竿がなんか引いてる!」
 木田が立ち上がって騒いでいた。あいつ、釣り始めてたのか。というか、アジ釣りでそんな強い引きがあるわけないだろ。どんだけ非力なんだ。
作品名:白黒ドリップ 作家名:和家