白黒ドリップ
「ごめんなさい。今日中にこの本を読みたいの」
私は図書室から借りたオセロの本を見せてからランドセルに入れた。明日はカズ兄ちゃんの来る日だ。それまでに勝つ方法を見つけないといけない。もう負けっぱなしは嫌だ。
ゲームも嫌いじゃないけど、みんながやっているゲームは野菜を育てたり、着る物をオシャレにしたりするものばかりで私は正直退屈だった。勝ち負けがない遊びなんて何が面白いのか、さっぱり分からない。
「レイコちゃん、オセロばっかりだね」
大して仲良くもないのに、あなたが私の何を知ってるの。でも、お母さんが『怒ったら負け』って言ってたから私は反対に笑ってみせた。
「勝てると面白いのよオセロって」
そうやって自分たちより弱そうな人を探してるんだから分かるわよね。
「じゃあ、その内、遊びたくなったら言ってね」
他の子と遊ぶな、と言いたげな嫌な笑みから顔をそらして、私はランドセルを背負った。
「分かったわ」
そんなこと言ってるからブスになるのね。
教室からゆっくりと歩いて出た私は、廊下に同じクラスの子がいないことを確認してから、走って自宅へと向かった。
私は負けない。カズ兄ちゃんに勝つ。それまでは誰にも負けちゃいけないんだ。友達なんていらない。『一生懸命やることはいいことよ』ってお母さん言ってたもん。
でも、最近、カズ兄ちゃんは大学が忙しいみたいだ。前みたいにあんまり家に来てくれなくなった。大学でもオセロをやってるみたいで、以前も強かったけど、それよりもっとどんどん強くなっていく。
差を広げられない為にも私は今まで以上にオセロを勉強しなくちゃいけない。
「おかえりー」
家の前でカズ兄ちゃんが手を振ってくれた。髪色を去年からちょっと茶色に染めていて、なんだか芸能人みたいだ。かっこいい、と私は思う。
「カズ兄ちゃん、ただいま!」
私は足を速めて、その胸に飛び込んだ――
ぺちん。
最初の角を取られた。私は悲鳴をあげそうになる心を全身全霊で抑えつける。平静を装いながら全力で回転する脳に、更に回転するように命じた。まだだ! 今日だけは! 今日だけは負けるわけにいかない!
パタンパタンパタンパタン。
白く染まっていく盤上に私は全神経をおろした。置ける場所は限られている。そこに置いたら次はどうなる。その次はどうなる。その次は? 更にその次は?
可能性の広大な迷路を全力疾走で駆け抜ける。迷路はどんどん崩れていく。全てを確認する時間はない。知識と経験とカンと私の運命に全てを賭けて、私は走っていく――
初めての光景に自分の目を疑った。
盤に顔を近づけてもう一度、白石の数を指差し数え直す。すると、頭の上でカズ兄が笑い声をあげた。
「何度数えたって、一緒だよ」長い手が伸びてきて「おめでとう」と私の頭をクシャっと撫でた。それがくすぐったくて私も笑った。
この春から着ることになるセーラー服を初めて見てもらって、そのまま対局をした。
「あら、珍しい。レイコに見惚れてたのかしら」
たまたま通りがかったお母さんがそんないらない事を言う。
「いいから、お母さんはあっちいってて!」
見惚れてたなんて、あるわけないじゃない。でも、そうだったら……いやいや、無い無い!
私は顔が熱くなるのを感じて、カズ兄に見られないようにうつむいたまま、片付ける為にオセロに手を伸ばした。
「あ、待った待った」
声に手を止めて、顔をあげるとカズ兄がポケットから携帯電話を取り出した。
「記念写真撮らない?」
「写真!」私は髪の毛を慌てて手で撫で付け、梳いた。さっきカズ兄に乱されたままだったからだ。
「大丈夫だよ。長くてきれいな髪だよ」
そうかな。でも、カズ兄に言われるんなら嘘でも嬉しい。私は手早く髪の流れを決めると正座しなおして、オセロ盤をお腹に抱えた。マグネットだから石が落ちる心配はない。
「これでいいかな」
「うん、いいよ。はい笑ってー」
笑って、と言われて笑えるものではない。それでも私は精一杯の笑顔を浮かべた。すると「くふっ」カズ兄が携帯電話を構えたまま吹き出した。
「ごめん、普通にしてていいよ」肩を揺らしながらカズ兄が真剣な顔で言った。口元が震えている。
笑えばいいのに、ほんと真面目なんだから。私の口元が緩んで「ふふっ」と声が漏れた。
「初勝利おめでとう」
カシャッと、わざとらしいシャッター音が携帯電話から聞こえた――
ぺちん。
一進一退の攻防の末、私はついにその一手で流れを逆転させた。綿貫の顔が曇る。
私は落ち着いて白石を一つひっくり返した。パタン。
この手を返されなければ、私の勝ちだ。いや、まだ油断するのは早い。呼吸をゆっくりと整えて、髪を撫でた。短い髪にも、もう違和感を感じない。
綿貫が額に手を当てて長考に入った――
「あの、カズ兄」
きっとその日、カズ兄はいつものようにオセロをしにきたのだろう。けれど、その日の私は『いつものように』では我慢することが出来なかった。
どこかに飛んでいってしまいそうな、体より心より大きな何か。その何かが私の中にあってその動きを止めることが出来なくなっていて、突き動かされて、私は口走ってしまった。
「この勝負で勝ったら彼女にさせてください」
いつからそうだったのか分からない。気づけばそうだった。
そして中学に入ってからずっと私の連勝は続いていた。いつもギリギリだったけれど、ずっと勝ってきた。
だから……そう、だから、抑えきれなかった。
年の差が大きいことなんて分かってる。カズ兄はもう働いてる大人だし、私はまだ高校生にもなっていない子供だ。でも、笑ってくれるカズ兄が誰か、どこか知らない女の人に取られるのだけは嫌だった。
ワガママを言っても、ダメなことをしても、いつも正面から怒ってくれる。いいことをした時にも、まっすぐ私を見て、笑って、頭を撫でてくれる。
同級生のように私を見下したり怖がったりしない。他の大人たちのように頭を抑えつけたりしない。
私が私のままでいることを、いつも笑って見てくれる人。
「いいよ、分かった」
カズ兄は勝負を受けてくれた。
その一局は、いつもより集中して、絶対に負けられない、と耳鳴りがするまで考えて考えて考え抜いた。
カズ兄の様子は、どうだっただろう。いつもと同じだったように思う。
なのに、私は、負けてしまった――
ぺちん。
私は黒石を角に置いた。二つ目の角。盤上はすでに大半が埋まっていて、負ける要素はもうない。あとは流れに任せて埋めるだけだ。使い過ぎた頭が急激に冷えていく。
私は一枚ずつ、白石をひっくり返した。パチンパチンパチンパチンパチンパチン。
綿貫は額に手をやって眉間に皺を寄せていたが、目を閉じてゆっくりと二呼吸程度の時間を置いて皺がほどけた。納得できたのだろう。目を開けて白石を残りの場所に置いた。
ぺちん。パタン。
あまり間を開けず、私はその隣に黒石を置いた。ぺちん。
自分が招いた結果とはいえ、この為に一年間がんばってきたとはいえ、あまりいい気分ではなかった。
パタンパタン、白が黒に変わっていく。パタンパタン、どんどん黒く染まる。パタン。