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白黒ドリップ

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 昇降口で靴を履き替えてから校門まで行くと、道路を挟んだ向かい側に自動販売機が三台並んでいた。なるほど、これの事だな。
 車の通りは少なかったけれど、念の為、左右を確認してから小走りで渡る。自動販売機のラインナップを見てみると学食のそれよりもはるかに多く、私の好きなお茶の銘柄もあった。
 小銭入れをポケットから取り出して百円玉を投入する。機械の中を百円玉が転がっていく音を聞いて私は気づいた。
 そういえば、私、同級生にジュースおごるのって初めてだ。なんだか楽しいな。顔が緩んでしまう。
 続けてお金を投入し、私はペットボトルを二つ買った。ポカリと私のお茶。二本を手の中に抱えた時、私はもう一つ大事なことに気づいた。
 そういえば、ペットボトルの持ち込みって校則違反だっけ。
 理由は『ゴミ箱がないから』だそうで同じ理由で学食にも売ってない。あまり誰も守っていない校則だけど、教師に見つかったら怒られそうだ。
 私は二本のペットボトルをジャージの内側に入れて、ジャージごと抱えた。冷たいペットボトルがお腹に触れる度に「ひゃ」体の力が抜けそうになる。それを堪えながら、私は元着た道を誰にも見つからないよう走って戻った。
 細い体すら支えきれず一歩進むごとに足の裏がベタンベタンと音を立てる。
 走り方がどんくさいのは自分でも分かっていた。テレビ番組なら観客の笑い声でも入りそうなどんくさい走り方。
 でも、気持ちよかった。
 空気を吐き出し尽くした肺がくれる苦しさも、一歩ごとにちぎれそうになる足の痛みも、抱えたペットボトルから伝わる冷たさも、今の私が浅井さんの為にしていることだ。その全てが、嬉しくて、苦しくて、苦しさが嬉しくて、私は笑い声を出さないようにするのが精一杯だった。
 図書室まではとても遠かったけれど、あっという間に着いてしまった。悲鳴をあげる全身を引きずりながら、私は汗がつかないようにペットボトルをお腹から取り出してドアを開けた。
「おい、大丈夫かよ。すっごい汗だぞ」
 目が合った浅井さんが慌てて立ち上がって近づいてきた。大丈夫、と言いたいけれど、代わりに出たのは「ケホッケホッ」咳だった。
「うわ! 全然大丈夫じゃねえ!」
 心配を露にうろたえる浅井さんに、ポカリを差し出すと「バカ!」ときつい一言の後に「無理すんなよ」と優しい声で受け取ってくれた。ふふ、大丈夫、大丈夫。
 体力が限界だったので椅子に座る為に私はテーブルに近づいた。と、その前に浅井さんが先回りして、椅子を引いてくれる。ありがとう。
 お茶のペットボトルを火照った顔に当てると、冷えていて気持ちよかった。荒い呼吸はしばらくはどうにもならないから、気にしないことにする。
 まさか、私が走ることになるとは思いもしなかった。しかも自分から望んで。
「なんで走ったんだよ」
 隣の席に腰掛けた浅井さんが責めるような口調で睨んできた。多分、心配の裏返しだろう。私は荒い息にタイミングを合わせてどうにか声を出した。
「ペットボトル」すう「バレると」ふう「まずい」もう無理「ケホッ」
「ああ」意味が通じたのか、浅井さんは反応を示して、すぐに渋い顔になった。言いにくいことを言うのだろう。その内容に私はなんとなく察しがついた。
「あの、な。学校内にゴミを捨てなきゃ先生は何も言わねえよ」
 予想していたとはいえ、改めて聞くと体から力が抜ける。私のドタバタダッシュは一体なんだったんだ。
「でも、急いでくれてサンキュ」
 浅井さんは照れくさそうにポカリの蓋を開けて、飲み口を軽くくわえると天を仰いだ。逆さまになったペットボトルが点滴パックに見える。けれど、喉を鳴らしながら流れ込んでいくその速度は点滴の数十倍、数百倍早い。
 体が欲するから飲む。『生命力』を人の姿にしたような光景に私は目が離せなくなった。
 私にないもの、私とは違う生き物。その認識に私の中で暗い灯りが一瞬にして灯る。
 きっと彼女なら同じように走っても、軽やかなステップで翔ぶように速く、走り終わった後も疲れを楽しむように笑うのだろう。
 言葉を発せられなかったのは、呼吸が荒いからだけではない。何かを口に出せば、その言葉は彼女をひどく傷つけ、自分自身も傷ついてしまうと分かったからだ。疲れている時の私はロクなことを言わない。
 だから私は口を塞ぐために自分のお茶に口をつけた。冷たいお茶が香りとともに流れこんでくる。私もそのまま天を仰いだ。小さく喉が鳴ったけれど、それっきり喉が塞がって『もう飲めない』と体が合図を出してきた。たった一口。これが今の私。
 退院する時に分かっていたはずだ。学校に行くということ『普通』の生活を送るということがどういうことか。普通未満の私にとって普通の生活は果てしなく遠い。目の前にあるのに手が届かない。
「なあ」
 半分ほどに減ったペットボトルを片手で揺らしながら、浅井さんが私の調子を確かめるように聞いてきた。それに私は目線を向けて応える。呼吸はもう楽になっていた。
「病気、ってどんな感じなんだ」
 淡々とまるで明日の天気でも聞くように尋ねてきた。でも、きっと言いにくいことを彼女なりに言葉を選んで口にしたのだろう。
「どんな? 病名とかは分かんないですよ」
 病名を聞かれても私にもよく分からない。抵抗力と体力がつく年齢になるまでは、薬の副作用や併発が多くて、はっきりとした原因が分からなかったからだ。
「病名聞いてもアタシにも分かんないよ」頭悪いんだから、と浅井さんは小さく続けた。
「ほら、病気の時は心が弱る、て言うじゃん」
「うん」体が弱れば心も弱る。心が弱れば体も弱る。
「でも、アンタ強いからさ」
「へ?」強い? 私が?
 私の間の抜けた反応に、浅井さんは顔を赤くした。
「いや、だから! その、力とかじゃなくてさ。嫌なことでも引き受けるっつーかさ」
 説明が難しいのか、浅井さんは髪の毛をクシャクシャっと手で乱した。
 ああ、言いたいことが分かった。「だって私、引き受けないと留年しちゃうし」
 私の答えに、両手を合わせてポンと鳴らした。
「それだよ。なんで学校来てんの? いや、来んなって意味じゃなくて」
 悪い意味じゃない、と彼女は両手をヒラヒラと動かした。ああ、意味が分かった。
「『無理して来なくても、生きていけるのに』ってこと?」
 質問を確認してみると「そう!」と彼女は通じた喜びを露にした。私は笑う彼女を見ながら回答の為に改めて言葉を選びなおす。なんて言えば通じるかな。
「うーん、普通にしてみたかったから、かな」今日みたいに。
 浅井さんが顔に「?」を浮かべている。それもそうだ。私は説明を続けた。
「子供が走ることって普通でしょ?」
「うん」浅井さんの返事を聞いて私は更に続ける。
「子供が勉強するのも普通でしょ?」
「うん」
「子供が友達と遊んだり、走ったり、ジュース飲んだり、これも普通でしょ?」
「ああ」
「そういうことをずっとしたかったの」私はなるべく感情を込めずに言い切った。
 病院の中で暮らしていると病気が『普通』になる。じゃあ、学校に行けばもっと違う素敵な『普通』がいっぱいあると思ったし、それは実際そうだった。
作品名:白黒ドリップ 作家名:和家