白黒ドリップ
怒鳴られた! そう言われても、私だってそれぐらいしか知らないんだから、しょうがないじゃない! 図書室なんてテレビでしか見たことないんだから。なんかもう泣きたい。学校嫌だ。病院に帰りたい。
目から涙がこぼれそうになり、少しだけ顔を上に向けてどうにか堪える。
「はあ」深いため息をつく音がした。呆れられたのかもしれない。
彼女は大きく息を吸ってから、落ち着いた声を発した。
「大体、この学校に図書室なんてあったか」
私は堪えたままの涙をこぼさないように、ゆっくりと彼女に顔を向けた。
「旧校舎の二階にあるそうです。私も行ったことないんですけど」
怖がっている私を察してくれたのだろうか。だとしたら、案外いい人なのかもしれない。
「いや、旧校舎にアンタみたいなのが行ったら……」
言いかけて言葉を止める。皆まで言われずとも私だって行きたくはない。
「アンタ、さっき誰の紹介だって言った?」
確かめるように聞いてきたので、私はこんな目に合わせてくれた教師の名前をもう一度、口にした。
彼女はその名を聞いた途端に「チッ」と舌打ちをして、
「用件は想像ついたよ。で、アンタはその図書室に何の用があるんだ?」
前髪をかきあげた。短い髪は、また元の位置にサワサワと落ちてくる。
「私は、その図書室を放課後開けなきゃいけないみたいなんです」
私の言葉に彼女は目を大きく見開いた。
「その日だけ?」
「いえ、毎日」
またもや彼女の予想を裏切ったようで、更に目が大きくなった。そして次の瞬間、大きな声を上げて笑い始めた。スポーツ少女のようなさわやかな声で、その身にまとった危険な雰囲気と合わさると、なんだか無邪気な少年のようにも思えた。
そうですよね、私みたいなのを旧校舎に毎日通わせるなんて、ちょっと気の長い計画殺人ですよね。
「さすがに嘘だろ。大体アンタ、なんでそんなこと引き受けたんだ」
引き受けるつもりはなかったんだけど、片部先生がバカなことを言ったせいで、図書室管理をすることになってしまった。もうホント、あのバカタベめ。
「えっと、私、ずっと入院していて出席日数が足りないんです。それで課外活動をしないといけなくて図書管理をやることになったというか、押し付けられたというか」
説明というより愚痴になってしまったけど、大体これで合ってるはずだ。
「入院? どっか悪いのか?」
彼女の眉尻が下がり、声に心配の色が混ざる。やっぱり悪い人ではないようだ。でも、あまり心配されすぎるのも好きじゃない。
「いえ、私のは大したこと」と言いかけた所で「あ、やっぱいい! 言わなくていい!」と慌てた様子で両手でパタパタと振られた。そう言われると続きを話せない。
「女に聞くことじゃねえよな」
と、なにやら一人で納得して、座ったまま腕を組んで目を閉じた。何か考えているようだ。
彼女の目線から解放されて、少し気持ちが楽になる。そういえば、本のタイトルはなんだったのだろう。
テーブルに置いてある本の背表紙をよく見ると昔の文豪が書いた恋愛小説だった。確か『サナトリウム文学』と呼ばれる隔離病棟や療養地を舞台にした作品だったと思う。私にとっては『この作品はフィクションです』では済まない結末が多いらしいので、読んだことはない。面白いのだろうか。
タイトルから内容を想像していると、彼女の目が開かれた。考えことが終わったようだ。
「いいよ」
彼女は短くきっぱりと答えた。私に向けられたまっすぐな視線に凛とした声。その姿に私の胸中は、大きく脈を打った。けれど、すぐに本のことを思い出し、タイトルを見てしまったことを少し後悔した。見なければ、この姿を単純に『すてき!』と思えたことだろう。
「開けんのはいつから?」
警戒の消えた柔らかい声で尋ねられた。えっと、木田さんのことがあるから。
「出来れば明日にでも掃除したいですけど、どうにかなるんですか?」
一瞬、不良たちをバッタバッタとちぎっては投げちぎっては投げと大暴れする彼女を想像したけれど、すぐに打ち消した。いくらなんでもそれはない。
私の質問に「ん」と相槌を返すとまた笑顔を消した。この目付きの鋭い顔が素の顔なのかもしれない。
「アタシが行って『悪さすんな』って言えば悪さしないよ」
「そんなことで!」
事も無げに言う彼女を見て、もしかして不良たちって実はいい人達なんじゃないだろうか、と少しだけ思った。
「アタシのオヤジ、空手やっててさ。アタシも含めて、この辺のヤツはほとんど弟子なんだ」
この辺のヤツ、というのはこの辺の不良、という事だろうか。なんて心強い話だ。
「ありがとうございます!」
私が頭を下げると、頭の上から「そんなのいいよ」と照れるような声が聞こえた。根はいい人なんだろう。ホント助かる。何かお礼がしたいな、何かいいものは……あ、コップの中はジュースっぽい。
私は顔を上げて、なるべく失礼にならないように聞いてみた。
「あの、甘いものとかクッキーってお好きですか?」
彼女の目が一瞬、見開かれたけれど、すぐに元の顔に戻った。こういう癖なのかもしれない。
「ああ、嫌いじゃない」
良かった。今の反応なら多分、好きだろう。
「じゃあ、私ちょっと教室戻って取ってきますね」
私が後ろを向いて出入口へと歩き出すと、その背中に「おい」と彼女の声がかかる。もう怖くない。
振り向いて「はい?」と返事をすると、椅子から立ち上がった彼女が目線をよそにやりながら、片手で前髪をかきあげていた。
「もらいっぱなしじゃ悪いから、飲みもんおごってやるよ。何がいい?」
ふふふ、やっぱりいい人だ。私はハッキリと届くように答えた。
「浅井さんと同じやつで!」
* * *
「食堂おでん」
ガラス越しでは景色は見えず、代わりに光を反射して醤油で煮染めたような店内が映っている。外はすっかり暗いようだ。ほんの数日前までは、こんな時間でも明るかったはずなのに、夏がもうすぐ終わる。弱めの冷房じゃ消せない熱気と酒の匂いが店内に残っているのが気に入らなくてアタシはエプロンで手を拭いてからガラス戸を開けた。
闇の中に、店の看板の明かりがうっすらと景色を浮かび上がらせる。店前に横たわる車道には車が通る気配なく、その車道沿いに長く伸びる堤防がその向こうにある砂浜と日本海を覆い隠している。
その夜へと一歩踏み出すと、涼しい風が吹いていた。火照りを失っていく感覚にアタシは汗をかいていたのだと気づいた。気持ちがいい。
店内から聞こえる喧騒に混じって、堤防向こうから波音が聞こえる。明日もいい凪だろう。
今日、話しかけてきたあの女子、永井って名前だったか。アイツは釣りをしたことがあるんだろうか。今度誘ってみよう。いや、休日にアタシと一緒じゃ傷がつくかもしれないな。
「おい、タマ! おでんくれ!」
店内から酔っ払いの怒鳴り声が聞こえた。やれやれ、のんびり『少女』するヒマもない。
「おいよ! 卵と巾着、三個ずつでいいか?」
アタシも怒鳴り返しながら店内に戻ると、奥の座敷からガラと趣味の悪いTシャツの男が赤ら顔を出していた。
「んなもん食う金ねえよ! コンニャクとはんぺん三つずつ!」