白黒ドリップ
もちろん、上級生と言っても頼りになるお兄さんお姉さんという意味ではなく、深夜のコンビニ前でたむろしている類のアレである。「絶対近づいちゃダメ!」とクラスの女子たちが話しているのを何度か耳にした。
「ああ、その件なら大丈夫だ。うちのクラスに浅井って女子がいるだろう」
浅井、浅井……ああ、いつも腕組みして一人で不機嫌そうに座ってる髪の短い女子だ。皆、怖がっていて誰かと会話している姿を見たことがない。
「あいつに言えば、そこらへんはどうにかしてくれる。多分、放課後なら学食にいるから」
片部先生はそう言いながら、机の端に置いていたマグカップを手にとった。『話は終わり』ということらしい。
いや、まだ引き受けるって言ったわけじゃ……
「綿貫先生、少しよろしいですか」
その時、後ろから背筋が凍りそうな冷たく硬い女子の声が聞こえた。高校生らしからぬ声の主が気になって私は振り向く。
「はい、木田さん。どうかしましたか?」
椅子に座ったまま、綿貫先生が落ち着いた声で返事をする。その正面で女生徒は品の良い笑みを浮かべて立っていた。さっきの冷たい声をこの女子が発したなんて信じられなかった。夏服のセーラー服から伸びる手は白く、指も細く長い。黒い髪が短く首すじにかかっているのが正直「惜しい」と思った。長ければ『深窓の令嬢』と言われても納得しただろう。とはいえ、短い髪でも育ちの良さはまとった空気で十二分に理解できた。
「綿貫先生、私とオセロをしてくださいませんか?」
またオセロだ。オセロ王子って一体何なのだろう。
「それはアレの事と捉えて良いのですか、木田さん」
木田さんと呼ばれた女生徒の口元が少し引きつったように見えた。というかアレって?
「どう捉えてもらっても構いません」
よく見ると、木田さんの目の奥は笑っていない。
「いいでしょう。場所は、そちらが用意しといてください」
「分かりました」
木田さんは軽くお辞儀をすると、顔に笑顔を貼りつけたまま、今度は私へ、いや片部先生の元へと歩いてきた。
「片部先生、どこか空き教室はございませんか?」
目の前の決闘のような空気に呑まれていた先生は、急に名前を呼ばれて「うおっ」とコーヒーを床にこぼした。
「あー、あー」机の上に置いてあったトイレットペーパーをクシャクシャッとからめ取って、床にこぼれたコーヒーを拭いている。女王様に悪事がバレた家来のようだ。
家来はそのままコーヒーを拭きながら答える。
「そこの永井さんが図書室を開けるよ。誰も来ないだろうから空き教室みたいなもんだ」
その言語に、木田さんがその矛先を私に向けた。
え、ちょっと! まだ開けるなんて一言も……
「あなたが永井さん? 図書室をいつ開けるのですか」
有無を言わさぬ迫力に私の心臓が悲鳴を上げる。この人、怖い!
「えっと、あし……明後日。明後日開きます……多分」
迫力に押されてつい、そう答えてしまった。私も『あーあ』と床をゴロゴロ転げまわりたくなった。
木田さんは私の返答に「ありがとう」と嬉しそうに目を細めた。その外見通りの笑顔に私の胸が優しく高鳴る。
けれど、私から目をそらすと同時に元の表情へと戻り、綿貫先生に「明後日の放課後でお願いします」とゆっくりと丁寧に頭を下げた。
綿貫先生もやりとりを聞いていたらしく、スケジュール帳を見ながら「はい、いいですよ」と丁寧に答えながらペンで書きこむ。
私の脳裏に『キツネとタヌキの化かし合い』という言葉が浮かんだ。タヌキらしいのは、どちらかといえば片部先生の方だけど。
「それでは、失礼します」
彼女が職員室の扉を開けて出て行くと「はあ」あちこちから安堵のため息が漏れた。みんな呑まれていたらしい。
「とりあえず、浅井に頼むなら、急いだ方がいいぞ。帰っちまうからな」
片部先生が他人ごとのように残り少なくなったコーヒーをすすって机へと向かった。
その呑気な後頭部を、机の上に積まれた『保健だより』の束を丸めて、力いっぱい叩きたい衝動に駆られたけれど、紙がダメになるともったいないので、やめた。
* * *
「学食クッキー」
寒い職員室から廊下に出ると、残暑の暑さが廊下に漂っていた。冷えきって固まりそうだった私の節々が、一歩歩くごとに暖気に解かされていく。離れた校庭からかすかに聞こえる運動部の掛け声をBGMに私は昇降口近くの学食へと入った。
私はお弁当派なので学食を利用したことが無い。初めて入る学食の中はほどよく涼しく、一クラス分の生徒を楽に収容できそうなぐらい広かった。昼休みの男子達のぼやきを小耳に挟んだ限りでは『狭い、うるさい、先輩怖い』という話だったけれど、放課後に限って言えばそうでもないのかもしれない。
午後五時ともなれば来客の見込みはないようで、奥の厨房では食器を洗う機械が轟音を響かせて片付けを始めている。そんな人を寄せ付けない時間帯の食堂に女生徒が一人で座って本を読んでいた。テーブルの上には中身の入った紙コップが置いてある。
膝丈のスカートから伸びたふくらはぎはほんのり日焼けしていて、使い込んだ木製バットのように引き締まっていた。空調の微風に短い黒髪が軽やかに揺れて、横顔から覗く口元は凛々しく、意思の強さが感じられる。『弱肉強食』で言えば間違いなく強食。けれど、粗暴な印象はない。
ずいぶん熱心に本を読んでいる。そう思いながら近づいていくと、本のタイトルが読めるか読めないかぐらいの距離で、パタンと本を閉じて裏向きで机に伏せられた。心の中を読まれたのだろうか。
「なんか用?」
本に夢中になっていると思っていたけれど、近づこうとしていた私には気づいていたらい。緊張のこもる目が私に『近寄るな、その場で話せ』と突き刺さる。そのショックで私の頭の中が真っ白になり「えっと」思わず意味のない言葉が口から出た。
なんだっけ。運動得意なんですか? 本のタイトル? いや違う、本じゃなくて図書だ。
「あの、浅井さんですか? 図書室のことで、片部先生に紹介されてきました」
これで伝わるだろうか。でも、詳しい説明をしろと言われても『浅井に聞け』としか言われていないのだから、私も知らない。
「は?」
不信感を剥き出しにした目線に射ぬかれて、私は背中に嫌な汗が流れるのを感じた。
今日はこんなのばっかりだ。早く家に帰りたい。甘いものが食べたい。そうだ。カバンにお母さんのクッキーが入ってる。あのクッキーとお茶、ううん、ホットミルクかカフェオレがいいな。そういえばお母さん、DVD借りてきたって言ってたから一緒に観たい。怖くないやつだといいんだけど、また海外ドラマだろうから、ちょっとぐらいは怖いシーンが混じってるかもしんないな。
「おい」
「はい!」
不信感どころか苛立ちのこもる口調で呼びかけられて、とっさに大きな声を出してしまった。彼女の目に更に嫌悪感が混じる。やだ、暴力反対。
「図書室ってなんだ」
「えっと、本のたくさんあるとこです、多分」
「そういう意味じゃねえよ!」彼女の眉が釣り上がる。
「ごめんなさい!」