キツネのお宿と優しい邪法
その瞬間、サワの草履が土間をギュッと踏みしめる音がして、静かになった。
人の恋路は邪魔をするもんじゃない。五百年越しなら尚更だ。
しばらくして、ペタリと土間に座り込む音が聞こえた。ゆっくりと様子を見ながら振り向くと、一人になったサワが座り込んで泣いている。
「ふえ」
子供のような声を漏らした途端、サワが家中に響く泣き声をあげ始めた。今までの大人びた姿が嘘だったかのように、一太の名を何度も呼びながら子供さながらに泣きわめく。
「それもそうか」
サワは十五、六の子供なのだ。俺がこの年の頃はこんなにしっかりものだっただろうか。
思い出したくもない恥多き歴史を振り返りながら、サワが泣き止むのを、キツネ様と二人でじっと待ち続けた。
五百年分、泣くといい。
そうして待つ内に夜も更けて、朝になった。
* * *
8
「ここでいい、おろしてくれ」
失った手足の代わりに、サワに手伝ってもらいながらどうにか山頂の開けた場所へ腰を下ろした。青い空を見上げたのなんて、随分久しぶりな気がする。
交代の儀で発動するはずだった莫大なエネルギーは、その大半がアリジゴクを倒すのに使われたようで皮肉にも山への効果は全くといっていいほどなく、相変わらずの秋の山がそこにはあった。
「痛くありませんか?」
もう何度めになるだろう、血が出てないから痛くないと言っても聞いてくれない。そんなサワにキツネ様が「大丈夫だ」と答えた。
「チガワリの儀が効力を失うまでは、命を削られる痛み以外は感じぬ」
「あれか」
明け方に全身の指先から足の先、頭の中まで、無数の小虫が皮膚の下を這いまわり齧られる痛み、と言えばいいのか。体が脳へ感覚をそう伝えてきたが、心に伝わってきた感覚は「死を許されない」という苦しみだった。
「確かにロクなもんじゃないな」
ぼやいてから目をやると、キツネ様がサワに促すように目線を向けていた。
「さて、サワよ。これからどうする」
サワは困ったように笑った後で、両腕をすり合わせるようにモジモジして俺を見上げた。
トイレか?
キツネ様がピシャリと「しっかりせぬか」と叱りつけると、サワはその場にゆっくり両膝をつけて背筋を正した。
「その、圭太様がお嫌でなければ、お側に置かせていただけませんでしょうか」
昨日の今日で図々しいお願いで申し訳ありませんが、と付け加えて、サワは頭を下げた。
「は?」話が見えない。
「うむうむ」
訳知り顔のキツネ様が満足気に頷いてから、俺を見た。
「貴様につがいがおらんのはお見通しじゃ。その年で甲斐性のないことは言うまいな」
つがい? 甲斐性? お蕎麦? サワが? っていうか女子がお側に?
「まさか、結婚しろ、ってことじゃないよな」
言葉が難しいので、確認するようにサワに質問を投げると、顔を赤く染めて「よろしくお願いいたします」ともう一度、頭を下げた。
「いやいやいやいやいやいやいや」
全身全霊で拒否すると、慌てて頭を上げたサワが目に涙を浮かべた。
「愚か者。雌に恥をかかせるなど、何事だ」
キツネ様が軽蔑の込もった声で俺を責めた。
「いや、サワがどうとかっていうんじゃなくて無職! 俺の仕事ないの! 食わせるメシがないんだよ」
「まさか村八分なのですか?」
俺の言葉に、驚いたサワが口元に手をやって声を失った。
村八分て。いつの時代だ! って五百年前の人か、ああ、説明難しいな!
助けを求めてキツネ様を見ると、意地の悪そうな笑みを浮かべていた。あの顔は、全部知ってる顔だ。
「キツネ様! 説明してやってくれよ!」
「知らん。人の世では、それを教えるのもつがいの役割だろう」
それにな、とキツネ様が足元に寄ってきた。
「細かいことは後で考えよ。目の前のサワが貴様の伴侶として良いか悪いか」
良い悪い、ってそんな単純な話でもないと思うんだけどなあ。
とりあえず目の前に座ったサワを観察してみる。
性格は悪くない。むしろ、五百年、えーっと体感で言えば一年半と言ったか、それでも帰ってこない男を待ち続けるんだから、性格は良いんだろう。
年は十五だっけ、といっても時代的には数え年か生まれ年か分からんから、大体、高校生ぐらいとしよう。体つきは小学生並だけど、あんな食事じゃしょうがない。成長期だし、食事の改善によって今後の発育も期待できるだろう。
顔は、一重まぶたのあっさりした顔だが、多分、元々よく笑う子だったのだろう。人相も悪くない。
「貴様、雌にモテんだろう」
キツネ様が横からため息混じりの呆れた声を差し込んできた。
「な!」
確かにモテる方ではないし、モテた記憶もないけれど!
「誰が品定めをせよ、と言ったか。そんなことだから三十も過ぎて一人なのじゃ」
「いや、でも、良いか悪いかを見ろ、って」
「愚か者。サワのことを考えてやれ。みなまで言わせるな」
サワのことと言われても五百年前からタイムスリップしてきたようなもんなんだから、価値観とか文化とか色々と違うだろうし……あ。
なんてバカだ俺は。
「サワさん」
膝から先がないから正座すら出来ない。それでもどうにか、片手で体を起こして、なるべく正面で向き合った。
俺の視線をサワがまっすぐ受け止めてくれる。
この感覚には過去何度か覚えがあった。大体、嫌な記憶と共に。
けれど、サワは違う。そのはずなのに、今までで一番心臓が張り裂けそうなぐらい胸が苦しかった。俺は全身の力を振り絞って、どうにか声を発した。
「この先、どうなるか分からないけど、良かったらこれからも俺と一緒にいてください」
「はい!」
俺はその時、初めてサワの笑顔を見た。涼やかで、細かい悩みなんて全て洗い流してしまうような「沢」という名前の通り。
五百年後の世界に、知人も友人も恋人すらもいなくなり、一人で放り出されて、そのお供となるのが、片手足の無職だというのに。
サワの笑顔はとても素敵だった。
「サワさんは強いな」
誰にともなく呟くと、キツネ様が隣で満足気に笑っていた。
「さて、圭太。その手足だが、ひとつ案がある」
「まさか、元に戻るのか?」
希望を込めてキツネ様を見ると「無いものはない」とつっけんどんに返された。
「貴様には面倒をかけたからな。ひとつ、ワシが代わりになってやろう」
言うや否や、キツネ様が俺の顔めがけて飛びかかってきた。
「うわ!」
ぶつかると思った瞬間、キツネ様の体が細くなって「ぐぼぼぼ」俺の口から体の中へと入ってきた。苦しくはないが、喉を通るニュルニュルとした感触が気持ち悪い。
最後にふさふさの尻尾がチュルンと入り込んだ後、俺のなくなった手足の先が膨らんでいった。
「ヒィッ!」
骨を直にくすぐられるような感触に全身に鳥肌が立つ。しかし、見る間に手首、甲、指、指の先には爪までが早送りのように生えそろっていく。
「こんなもんかの。ほれ、動かしてみろ」
俺の口は動いていないのに、どこからともなくキツネ様の声がする。監視されているような薄気味悪さを感じながら、両手足を動かして立ち上がってみた。
「おお! 全然違和感ない。元通りだ!」
「良かったですね!」
サワも手を叩いて喜んでくれた。やはり笑う姿がかわいい。
作品名:キツネのお宿と優しい邪法 作家名:和家