キツネのお宿と優しい邪法
鼓膜どころか魂まで震わせるような呪いの言葉を放ちながらも、その体は破裂するごとに小さくなっていき、最後、小指の先ほどの小さなアリジゴクの姿になった後で、蒸発するように消え失せた。
断末魔の叫びが耳の感覚から少しずつ消えていき、部屋の中には寒気すら感じるほどの静けさが戻ってきた。
「なんだったんだ」
あの化物が村を飲み込んだというのはなんとなく分かるが、どうしてここにいたんだ。
「おそらく村を飲み込んだ虫の変化を、一太が封じたのだ。この山ごとな」
だから五百年間、山に誰も立ち入らなかったのだ、とキツネ様が淡々と続ける。
「そんなことをしたら!」
「『そこにあるが気付かれない』そういうものになる」
光を失い、ただの抜け殻のようになってしまった一太の腕から俺はそっと手を離した。
「一太はこうなることも覚悟していたんだろうか」
「さあな。一太が死んでしまった今、真実は永遠に分からぬ」
わざと辛辣な言葉を選んだキツネ様の声が、胸に突き刺さる。
本当はどうだったのか、分からない。
でも、それでも守りたいものがあったんだろう。その代償に交代が来なくなり、ただ、命を吸われるだけの存在に成り果てるとしても、それでも守りたかったもの。
一太、お前はちゃんと守りきったんだぞ。今、会わせてやるからな。
「キツネ様」
呼びかけると返事の代わりに、畳を叩く音がした。
景色が、一瞬にしてキツネ様の家へと変わる。
「苦労をかけたな」
横を見やると畳の上にキツネ様が座っていた。その隣でサワが大きく見開いた目に涙を浮かべながら、眠る一太へと駆け寄った。
「とと?」
世界が傾いていく。あれ? 疲れた、かな?
くるりんと回る世界の中で、俺は自分の左腕と右足がなくなっている事に気がついた。
* * *
7
倒れこんだ俺をキツネ様が意地悪そうに見下ろして笑う。
「おお、忘れておった」
キツネ様がタンと畳を叩くと、俺の左腕は元通りに戻っていた。
「え? あ? あれ?」
両手をついて体を起こすと、右足も元通りになっている。
「きちんとした処置は後でやってやるが、とりあえずはそれで我慢せい」
キツネ様が軽く言い放って、俺から目を逸した。その視線を追うと、サワと目を閉じたままの一太がいた。
「一太」
壊れ物でも扱うように、サワがその細い腕で、更に細くなった一太の体を抱き寄せる。化物が変化した偽者とはいえ、あちらの世界で見た一太の姿が脳裏をよぎる。
気が強く、まっすぐで騙されやすそうな、人のよい少年。その姿が今のサワには見えているのだろうか。
「一太、一太ぁ」
サワは、そのカラカラに干からびた体が砕けないよう、小さな声で、けれど懸命に名前を呼び続け、その目からは涙がとめどなくこぼれ落ちていく。
俺は音をたてぬよう、キツネ様にそっと近づいた。
「どうにかできないのか」
それこそ畳をタンと叩いて、元に戻すようなことが。
「無いものは無い。あるように見せることは出来るが、見せかけで通じる仲ではあるまい」
口調こそ厳しいものの、キツネ様の声には雪が溶けるような優しさがあった。
一太は交代と同時にその命を失ったのだ。いや、とっくに失っていた命を取り戻したのか。どちらにせよ、その役目を、長い長い役目をようやく終えたのだ。
キツネ様が、畳をタンと叩くと、一太の体が足の先から粉々になっていく。一太の時間が五百年ぶりにようやく動き出したのだ。
キラキラと輝きながら体がこぼれ落ちていき、畳の上で淡い光を放っては燃え尽きるように消えていく。
「一太」
心に留めておくことが出来ない思いが、サワの口からこぼれて、狭い家の中で消えていく。
一太の体が全て消えた後、かすかな光の珠が一欠片、サワの手の中に残っていた。その光はすぅっと浮かび上がると、小さな格子戸から外へと出ていった。
「一太の意思じゃ」
誰に聞かれるでもなく、キツネ様がポツリと呟いた。
トントン。
玄関の戸が外からノックされた。
「ひゃい」
条件反射にサワが涙混じりの返事をした後、静かにゆっくりと玄関へと近づいて、おそるおそる扉を開ける。
「ふぁ」
言葉を失ったサワが、湧き上がった衝動のまま、勢い良く来客に抱きついた。
そこに立っていたのは、先程までの変わり果てた姿ではなく、在りし日の一太の姿だった。薄ぼんやりとした光を放ちながら、時々、ろうそくの火が揺れるようにその輪郭が歪む。
「遅なって悪かったのう。待ったか?」
サワを力強く抱き上げたまま、一太は家の中へと足を踏み入れた。サワは声の代わりに涙を溢れさせながら、無言で小さな頭を力いっぱい振った。
別々に見た時には、二人とも頼りない子供に見えたが、こうして見ると仲の良い夫婦に見える。生まれた時代さえ違ったなら、こういう未来もあったのだろう。
黙ったまま様子を見ていた俺とキツネ様に向かい、一太がペコリと小さく頭を下げた。サワの背中や頭を確かめるように撫でると、サワが何かを理解したのか、ゆっくりとその体を離した。
自由になった一太が、俺に向かって、今度は深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。おかげでサワに会えました」
「祝言はあげなくていいのか」
無いものはない。だが、魂だけでもあるのなら、この家の中で暮らすことは出来るんじゃないのか。
俺の言葉に一太は悲しそうに笑って、今度はキツネ様に向かって頭を下げた。
「サワの為に家を用意していただき、ありがとうございました」
「なに、ワシからすれば五百年など些末なことよ」
キツネ様が優しい笑みで答える。
そうか、ここもまた、あの場所と同じようなものなのか。
「サワ」
一太がサワを向いて、両腕を広げると、サワはそれまで我慢していた思いをぶつけるように改めて一太の胸へと飛び込んだ。サワの細い腕がきつく強く、一太の体を抱きしめる。一太もまた、サワの細い体を柔らかく抱きとめた。
「一太! 一太ぁ!」
「大声出さんでも、ここにおるじゃないか」
泣き叫ぶサワとは対照的に、一太の声は穏やかに全てを受け入れるように優しかった。
「約束破ってすまんかった」
「いい! 帰ってきてくれたからいい!」
涙をきらめかせながら許すサワの頭を、少年の丸みが残る一太の手が優しく撫でる。
「先にいって村のもんと待っとるから、サワはゆっくり来るがええ」
「嫌じゃ! 一太と一緒にいたい! いきたい!」
一太の指がサワの髪を梳かしていく。
「どっちも無理じゃ。わがまま言わんでくれ」
生きたい、逝きたい。そのどちらも、という意味だろうか。
「だって!」
開きかけたサワの口を一太の指が封じる。
「だっては無しじゃ。わしらの代わりに生きて村を残してくれ」
サワまで連れていったら、わしの五百年はのうなってしまうじゃないか、と一太が諭すように囁いた。
「サワに似た子をたくさん産んでくれ。わしはそれが楽しみじゃ」
笑った一太の体が少しずつ透明に近づいていく。もう別れの時間も終わりなのだ。
サワの目には、消え行く一太しか映っておらず、一太もまた、サワだけを見ている。俺は、そのまま見続けようとするキツネ様を促して、二人に背を向けた。
作品名:キツネのお宿と優しい邪法 作家名:和家