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キツネのお宿と優しい邪法

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 耳をつんざく咆哮が聞こえた。声なのか音なのか衝撃なのか、あまりのショックに鼓膜がバカになる。
 耳がおかしくなったせいか、足元がふらつく。まっすぐ走ることすら難しくなってきた。
 チキショウ! あと少しだっていうのに。
 それでもどうにか両手も使って足掻くように木々の間を走り続けると、それが見えた。
「あった!」
 周りのしめ縄や柱は朽ちつつあるというのに、その小屋だけはまるで、昨日組み立てたように真新しく、格子状の扉が開け放たれていた。
「ていうか、小せえ!」
 サワの話には聞いていたけれど、これじゃ荷物入れのロッカーだ。大の大人が入るには三角座りでもしないと入れそうにない。
 一太はあんなとこで、ずっと過ごしてきたのか。
「中へ入り、扉を閉めろ。それで交代の儀は始まる。急げ!」
「言われなくても!」
 キツネ様の声に言い返した次の瞬間、荒い息遣いがすぐ後ろで聞こえた。
 あ、やば。
 一太の雄叫びと同時に軽く後ろから突き飛ばされて、つんのめりながらも俺は走り続け「た?」
 一歩進むごとに、視界がゆっくりと右へ傾いていく。どうしてだ?
「いかん、見るな! 今すぐ『戻る』と念じろ! 家へ戻れ!」
 キツネ様の声がハッキリと聞こえた。顔が熱い。それも左側だけが熱い。景色がやけにゆっくりと流れていく。
 目をやると、俺の左肩から水撒きでもするみたいに血が弧を描いて噴き出していた。そしてその場所にあったはずの腕が……ない。
「おい、圭太! 気をしっかり保て! 死ぬぞ!」
 死ぬ? 俺が?
「わ」ああああああ!
 叫びたくなる口を咄嗟に右手で塞いで、ありったけの理性で封じ込めた! ダメだ。今、叫んだら理性が飛んでいってしまう。
 視界が涙でにじんで、鼻から漏れる息が熱風のように熱く感じる。けれど、ダメだ。あの小屋にたどり着くまでは死ねない! 逃げられない! もう俺は終わりだ。でも、一太だけでもどうにかしないと!

 一太は俺だ。
 派遣契約を切られたのも不景気なら、不安定な派遣仕事しか選べなかったのも不景気のせいだ。別に悪いことをしてきたわけじゃない。女遊びだってほとんどしなかったし、風俗なんて行く金もなかった。
 だから、せめて仕事は、と頑張った。給料は上がらなかったけれど、俺だって誰かの役に立てる、それだけで安い発泡酒がうまかった。
 政治が悪いとか金持ちが悪いとか、そういうのは分からない。でも、誰かに迷惑をかけたら、俺は確実に悪者だろう。だから、そういうのは嫌なんだ。
 そういう生き方をしてしまったら、発泡酒は値段通りの味になってしまう。
 なあ、一太。お前もそういうつもりだったんだろう。
 村の不作はお前のせいじゃないもんな。流れ子になったのもお前のせいじゃないもんな。けど、どうにかしたかったんだよな。
 それでも好きな子と一緒になりたかっただけなんだよな。
 だったら、こんなとこで、俺を殺したって、何にも解決しないし、楽にもなれない。
 突然、昨日から突然だよ。こんなことに巻き込まれたから、俺は頭がどうかしてしまったのかもしれない。
 でも一太。これだけは分かる。お前はもう楽になっていいんだ。
 お前の契約はもう終了していいんだ。
 それを伝えにきたのが無職の俺、ってのは、運命のイタズラにしては悪い冗談だと思うけどさ。

 ゆったりと進む景色の中を一歩ずつ走っていく。
 開きっぱなしの小屋へ転がるように体を投げ入れた途端、足首を一太に掴まれた。
「欲しけりゃ、やるよ」
 俺の声が聞こえたのかどうかは分からないけれど、右足の膝から先がねじ切れて一太に奪い取られた。勢い余った一太が、後ろへ身を仰け反らせる。
 俺は残った左足に渾身の力を込めて、一太を蹴っ飛ばして、すかさず右手で扉を閉めた。よし。
 格子状の扉が閉まった途端、隙間から見えていた一太も、小屋の内側の木目も、世界の全てが真っ白に変わっていく。
「これでいいのか」
 呟いた途端、意識が急速に遠のいていった。

「あの! 起きてください!」
 男の声がする。
 眠いんだ。起こさないでくれ。
「交代の人ですよね! 早く起きて!」
 うるさいなあ。知らないよ、俺の仕事はもう終わったんだ。
「何言ってるんですか! これからですよ!」
 そんなの聞いてない。
「ああ、もう。起きろ!」
「いたっ!」
 頬を力強く叩かれて目が覚めた。目の前に気の強そうな男の子がいる。
「誰?」
 体を起こすと周りの景色は相変わらず真っ白で、どこが床でどこが壁かも分からなかった。ただ、なんとなくどこまでもこの空間は続いている気がする。
「わしは一太です。矢田村の一太」
 イッタ。
 その言葉に記憶のシナプスが連鎖反応でつながっていく。
「ああ、俺の手! 足! そして一太! 山! 沢! 俺、圭太!」
 無くなったはずの手足は何事もなかったようについている。夢だった? わけじゃないよな、だったら一太が目の前にいるわけがない。
「じゃあ、どういうことだ!」
「とりあえず落ち着いてください」
 目の前にいる一太は、あの変わり果てた姿とは打って変わって、袖口の破れた着物をまとった元気そうな普通の少年だった。子供のような目と大人の体つきがアンバランスに見える。
「ここは、あの小屋の中、なのか?」
 尋ねると、一太はコクンと頷き、手振りと一緒に「落ち着いて聞いてください」と言った。
「時間がないので、手短に話します」
 切羽詰まった様子に俺は黙って頷き返す。どうやら、のんびり座って一日いればいい、ってわけじゃないらしい。
「村の底に巣食う化物をワシと一緒に倒してください」

* * *




 体を起こしただけの俺に、正座した一太が改まって話し始める。
「どうやら、元々この山は蟻地獄の巣だったようです」
「アリジゴクっていうと、虫の?」
 俺の質問に、一太が軽く頷く。
「大きさは山ほどもありますけどね、なんせ、村をまるごと飲み込んだほどです」
 特撮の話のようだけれど、一太の真剣な表情がそれをフィクションだとは思わせてくれない。
「元々、そこにいて時期を待っていたのか、飲み込むつもりがなかったのかどうかは、今となっては分かりません。ただ、チガワリの法により、縄張りが荒らされると思ったのでしょう。それで、やつはチガワリの法が本当の効力を発揮する前に、村を飲み込みました」
 キツネ様の話と一致する。邪魔したのはアリジゴクの化け物か。でも、疑問が残る。
「本当の効力? じゃあ、今はどういう状況なんだ」
「今は準備段階です。吸われた命の大半を大地に貯めこんでいるんです」
 一太が背をピンと伸ばしてから、続ける。
「本当の力は、交代の者が来た時にこそ発揮されるんです」
 え? ん? 交代して終わりじゃないのか。
「なんか聞いた話と微妙に食い違ってる気がするぞ」
 俺が首を傾げると、一太も同じように首を傾げた。
「今はわしが山とつながっているので、多分、ワシの話が正しいと思いますよ」
 やれやれ、契約内容がいい加減なのは、古今東西どこでも一緒か。
「じゃあ、それが正しいとして、そのアリジゴクとどう関わってくるんだ?」
 尋ねると一太は、眉をキュッと吊り上げた。
作品名:キツネのお宿と優しい邪法 作家名:和家