キツネのお宿と優しい邪法
肩口にリュックのベルトだけが残っていた。どうやら、リュックを引き剥がすついでに投げ飛ばされたらしい。かなり背の高かった木々がはるか下に見えた。
死ぬには十分すぎる高さだ。
悪いことをしてきたつもりはない。優先座席にはなるべく座らないようにしてきたし、財布を拾ったら交番へ届けてきた。仕事もサボったことはない。優秀でなかったのは申し訳ないけど、それでも精一杯頑張って、誰にも迷惑かけないように生きてきた。
だから……せめて、誰かに好きと言われたかったなあ。
「いい大人が何を浸っておる愚か者」
硬い地面にドンと背中を強く打ち付けた。背中を打ったショックで、肺の中の空気が激痛と共に出ていき、ゲホケホと口元を手でおさえて、地面の上を転げまわる。
「地面?」
気付くと、暗闇が広がっていた。あれ? もう食われたのか。
「大丈夫ですか?」
視界の端から、幼い表情の女の子がひょこっと俺の顔を覗き込んできた。陰になって顔がよく見えないが、声は幼い。
「なんだこれ」
体は疲労のせいか指一本動かすのもかなり難しい。
「お水です」
視界の端から女の子が古ぼけた茶碗を口元に近づけてきた。どうにか首だけ起こして、茶碗の傾きに合わせて水を飲む。自分でも知らない間にかなり喉が乾いていたようで、一気に飲み干してしまった。正直言えば、あと百杯ぐらい欲しい。全然足りない。
けれど、水を飲めた、という安心感と同時に急激な眠気に襲われた。瞼の裏から睡魔が甘く誘ってくる。
「あの、布団引きますからまだ眠らないでください」
そう言われても眠いものは眠い。近くをトタトタ歩きまわる音を体で感じながら、俺は睡魔に負けて目を閉じた。
何もかもよく分からないけど、今はどうでもいい。とにかく眠いんだ。
* * *
2
目を覚ますと布団がかけられていた。といっても体にかかっているから布団だと思っただけで、ツギハギだらけでペラペラのこれは、巨大な雑巾と言っても差し支えないんじゃないだろうか。
身じろぎするだけで全身に痛みが走る。仕方がないので目線だけで様子を伺うことにした。
見上げた天井には明かりが届いておらず暗かったけれど、どうやら藁のようなもので出来ているようだ。牛小屋か何かだろうか。だとしたら、なぜ、俺は牛小屋にいるんだろう。
えーっと、最初から思い出そう。
無職になって、コンビニで山ガール特集を見て「山なら肩書き関係なく女性と知り合える」と思って、山へ行って、女性と出会えなくて、化物が現れて、走って逃げて、逃げて、逃げて、捕まえられて……そうだ、捕まったんだ。
白く濁った目を思い出した途端、全身に悪寒が走り抜けた。ビクッと体が跳ねるように震える。
「ひっ」そうだ、逃げないと!
布団を跳ね除けて立ち上がろうとした時、手を何者かに掴まれた。
「うわあああああ!」
その手を払いのけて畳を蹴ったけれど、すぐ眼の前の壁にぶち当たる。そのまま壁沿いに逃げようとしたけれど、二、三歩で部屋の角へ行き当たった。逃げ道がない!
「安心してください。ここは大丈夫ですよ」
「腰抜けにも程がある。情けない男だ」
頭を抱えていると、二つの声が聞こえた。最初に聞こえた声は優しく、後の方はバカにしたような声だった。
目をやると薄暗い部屋の中央に時代劇に出てくる村娘のような古ぼけた着物姿の女の子と、その隣に柴犬のような、けれど柴犬より線が細い感じの生き物がいた。
その犬のようなものが、黒く染まる前足で畳をタンと叩く。途端に脳に冷水をかけられた感覚が走り、同時に冷や汗が引いていくのが分かった。
「あの」
村娘が距離をとったまま、更に声をかけてきた。見た目と声は小学生のようだが、喋り方はもう少し大人びている。
「私、矢田村のサワと言います。こっちはキツネ様」
ヤタムラ? サワとキツネ? キツネってこんな生き物だったのか。初めて見た。結構かわいいもんだな。
「ぬ」
キツネの目つきが怒りを帯びて唸り声をあげる。
「サワがキツネと呼んでおるだけだ。貴様の知るキツネと一緒にするな」
口元の牙がギラリと光った途端、金縛りにあったように体が動かなくなった。本能がこの生き物に逆らうな、と告げる。
それでも、頭に浮かんだ疑問が口からこぼれ出た。
「キツネが喋った!」
「貴様っ、咬み殺すぞ!」
「キツネ様、脅かさないでください!」
サワが慌てた様子で、俺とキツネの間に飛び込んで大の字で通せんぼをすると、キツネは舌打ちでもしたそうな顔つきで、俺から目を逸らした。
改めてサワが振り返って申し訳なさそうに頭を下げる。
「ごめんなさい。キツネ様は矢田村の神様なんです」
「その認識もどうかと思うが、まあ、貴様らとは生きとる時間が違う」
拝まれても何もしてやれんがな、と言い残し、キツネは部屋の隅へ行くと、犬のように丸くなって目を閉じた。と思ったら刺すような目つきで俺を睨んできた。
「先に言っておくが、貴様らの心は声に出さずとも筒抜けだ。考え事には気をつけろ」
心の中でもキツネ様と呼べ、ということか。
「言わずもがな」
そう言い残すと今度こそキツネ……様は目を閉じた。
「気を悪くしないでください。本当はお優しい方なんです」
トタトタと軽い足音を立てるサワの背中を目で追うように、俺は部屋の中を見渡した。
六畳間の中央にかすかに火の残る囲炉裏があり、壁は藁と泥を固めたようなもので出来ている。窓は木で出来た小さな格子戸がひとつ。そこから四角い青空が覗いている。趣向を凝らした居酒屋のようだ、と言ったらキツネ様はまた怒るだろうか。
「私もキツネ様のおかげでこうして生きていられますし」
サワは草履を履いて、土間へと下りた。かまどにかけてあった鍋の蓋を開けて、おたまでかき混ぜてから俺を振り向く。
「お腹空いていませんか?」
尋ねられた途端、返事をするように腹が鳴った。そういえば、昼メシを食う前に襲われたから、あれから何も食ってない。
「ああ」
俺がバツ悪く目をそらすと、サワは可笑しそうに笑った。
「ご飯の準備しますね」
サワは鍋を囲炉裏へと運び、天井から下がったフックのようなものに釣り下げた。サワが薪を追加しながら、火箸で軽くいじるとあっという間に火が大きくなる。
ガスコンロもなくどうやって生活しているのか不思議だったけれど、これはこれで慣れてしまえば、下手なアウトドアより便利そうだ。
サワは時折、火箸で薪をつついて火力を調節しながら、鍋をぐるぐるとかき混ぜていく。温かそうな湯気と共に食欲をそそる味噌の香りが柔らかく広がっていく。
立ったまま待っているのも申し訳ないので、布団を適当に三つ折にして部屋の隅へ寄せた。それにしても座布団も何もない。申し訳程度に箪笥があるだけで、殺風景な部屋だ。
生活するだけで精一杯、と思っていた自分の部屋ですら、これよりはマシだ。
一体、なぜこんな所で子供と喋るキツネが生活しているんだろう。
そもそも、ここはどこなんだ。
格子戸から外を覗いてみると、青々とした林が見えた。常緑樹なんだろうか。空には青空に白い雲がのんびりと漂っている。まったく現在地の参考になりそうになかった。
「用意できましたよ」
作品名:キツネのお宿と優しい邪法 作家名:和家