キツネのお宿と優しい邪法
1
山頂の景色は開けていて、紅葉に染まる谷や向かいの大きな山が見える。秋も半ばだというのに、まだまだ日差しはきつく、シャツの下に着たTシャツが汗でびっしょりだった。
肩に食い込むリュックには、緊急用保存食はもちろん自転車修理セットから女性用生理用品まで、ありとあらゆるトラブルを解決する道具を詰め込んであるが、今のところ、一度も役に立っていない。
荒くなった息を整えながら、俺は改めて手にしたレジャー情報誌へ目を落とした。
――出会ったケース。都内在住Kさんの場合。
A山を登ってる最中に、その……急にもよおしちゃって(笑)でも、トイレットペーパーなんて持ってなくて困ってた所を、通りすがりのSさんに声をかけられたんで、事情を説明して助けてもらったんです。最初にそんな恥ずかしい所を見せちゃったんで、逆にリラックスできましたね。それから一緒に登ったんですけど、頂上に着く頃には、頼りがいのあるSさんに私からアタックしちゃいました(笑)――
俺は『山ガール出会い特集』から目を離して、もう一度秋の山を見渡してみた。何度見ても人っ子一人いない。登ってくる途中にも全く見かけなかったし、よくよく考えてみれば、山道には足あと一つ残っていなかった。
登る山の選択を間違えたんだんだろうか。つくづくツイていない。
生まれてからの三十五年『生きてるだけで丸儲け』なんて自分を励ましながら生きてきたけれど、ひたすらツイてない人生だった。
中学の時の初恋相手は、学校でも有名な不良と付き合っていて、俺の気持ちを知られた途端に、何故かお年玉の五千円を奪われて袋叩きにされた。
高校の時は、誰もやりたがらない仕事を良かれと思ってやっていたら、目立ちたがりと後ろ指を差されて、卒業式には誰とも会話できずに終わった。
大学の時も、社会人になってからもとにかく一事が万事、そんな感じで派遣契約も先月、不景気を理由に切られて、無職三十五歳。親しい友人はいない。
せめて、支え合えるような誰かと出会いたい、そのためにはアクションしないと! となけなしの貯金をはたいて山ガール攻略に乗り出したわけだが、この有様である。
文字通り重荷となったリュックが肩に食い込んだ。
「何が山ガールだ。恋愛主義なんて滅んじまえチキショウ!」
叫びながら雑誌を手の中で丸める。振りかぶって、力いっぱい投げ……かけて思い止まった。事情はどうあれポイ捨てはよくない。
「アホー!」「ぼけー!」「無職なめんなー!」
ポイ捨ての代わりに、ささくれた気持ちの赴くままに山々に向かって叫ぶと段々気持ちよくなってきた。そういえば、久しぶりに大声を出している気がする。
「悔しかったら!」「言い返してみろー!」
調子に乗ってそう言った瞬間、耳をつんざく雄叫びが正面から聞こえた。それも遠くの山からじゃない、割と近く、百メートルも離れていなさそうな位置からだった。
「誰?」
いや、人ではなく獣だろう。でも、ワンとかウオオーンとかならともかく、ガアアアという、人が本気でライオンの声マネをしているような雄叫びに聞こえた。
汗が急激に冷えたのか、体中にゾクッとした寒気が走る。なんだこの感覚。
やばい、なんかやばいぞ。逃げないと。
背を向けて逃げようとした瞬間、視界の端にそれが見えた。
『干からびたサル』
人間の大人ぐらいの体格なのに、その手足や胴体は、枯れ枝のように細い。そして皺だらけの大きな頭を俺に向けて、狂気を漂わせながら四つん這いでサルのように迫ってきていた。
「う、うわああああああ」
俺は一目散に逆方向、元来た道へと走り始めた。
慣れない山道と新品のトレッキングシューズのおかげで踵が靴擦れして皮がベロンベロンに痛む。絆創膏ならリュックに入っているけれど、足を止めるわけにはいかない! 俺は渾身の力を振り絞って山の中を走り続けた。全力疾走に運動不足の体が悲鳴をあげる。
くねくねとした山道を突っ切って通り抜けると、近道したつもりが全く知らない場所へ出てしまっていた。
どこだ、ここ。とにかく山を降りないと!
想定できるトラブルを全て解決できるだけのサバイバルグッズを詰め込んだ巨大なリュックだったけれど、こんなトラブルは想定していない。一歩踏みしめるごとに肩を伝ってその無駄な重みが足へとのしかかった。
すでに山道を大きく外れ、道ですらない林の中を走り続けているが、後ろから追いかけてくるモノの気配は消えなかった。それどころか近づいてくる。
背後に迫る化物がまたライオンのような雄叫びをあげた。
「うるせえよチキショウ! どっかいけ!」
なんで、あんな体で足が速いんだよ!
周りの景色が少しずつ暗くなってきた。山を降りていたはずなのに、もう道は傾いてすらいない。つまり、このままいっても山は降りられない。
それでも、全力で走るしか無かった。
捕まったら、食われるのか、殺されるのか。どちらにせよ、映画の中の宇宙人や恐竜の子供のように、友好的な雰囲気でない事だけは確実だった。
血に染まったような薄暗い紅葉の中を走り続ける。けれど限界の時がきた。
「あ」
足が急に動かなくなり、視界がグルンと下向きに回転して、落ち葉だらけの地面が目の前に、と思った瞬間、猛スピードのままリュックの重みで世界がグルングルンと三、四回転して、地面にうつ伏せに倒れこんでしまった。
痛みに歯を食いしばると、口に入り込んだ土を噛んでしまって更に痛みが走る。
急いで立ち上がらないと! と思うも足が痙攣していて動かない。
「つッ」
まさか、足を攣ったのか、こんなタイミングで! チキショウ!
あの化物はすぐ近くまで来ているはずだ、と思った途端、リュックの上に誰かがのしかかった。
十中八九、化物に違いない。けれど、最後の望みに賭けて、首をひねって背中に乗ったものをこの目で確かめた。
頭髪のない頭にシワシワの顔、歯のない口元からは真っ黒の闇が覗き、息をする度に細い笛のような音が小さく響く。狂気をはらんだその目からは黒目が失われ、白く濁った眼球が、しぼんだまま俺を見ていた。
カラカラに干からびたサル。殺意の権化のような存在。
俺はここで死ぬのか。
新聞には載るのだろうか。それを実家の両親が読むのだろうか。
それとも、誰にも知られず、数カ月後にアパートを訪ねてきた両親によって行方不明扱いされるのだろうか。
二人とも年金暮らしを目の前にして「心残りはお前の嫁探しだけだ」と冗談めかして言っていた。あの二人が、俺を探すのだろうか。この化物に食われて、とっくにこの世にいない俺を『死体が見つかっていない』という理由で、多くない年金を使ってずっと探し続けるのだろうか。
「いやだ」
視界がにじんで、落ち葉が茶色の固まりに見えた。
それだけは嫌だ。誰か、誰でもいい。助けてくれ。
「あ」
肩に痛みが走ったかと思った瞬間、リュックの重みが消え、浮遊感と共に視界が真っ青に変わっていた。
やけにゆっくり動く世界の中で、目に映る空は、冬を控えて青く澄み渡っている。
山頂の景色は開けていて、紅葉に染まる谷や向かいの大きな山が見える。秋も半ばだというのに、まだまだ日差しはきつく、シャツの下に着たTシャツが汗でびっしょりだった。
肩に食い込むリュックには、緊急用保存食はもちろん自転車修理セットから女性用生理用品まで、ありとあらゆるトラブルを解決する道具を詰め込んであるが、今のところ、一度も役に立っていない。
荒くなった息を整えながら、俺は改めて手にしたレジャー情報誌へ目を落とした。
――出会ったケース。都内在住Kさんの場合。
A山を登ってる最中に、その……急にもよおしちゃって(笑)でも、トイレットペーパーなんて持ってなくて困ってた所を、通りすがりのSさんに声をかけられたんで、事情を説明して助けてもらったんです。最初にそんな恥ずかしい所を見せちゃったんで、逆にリラックスできましたね。それから一緒に登ったんですけど、頂上に着く頃には、頼りがいのあるSさんに私からアタックしちゃいました(笑)――
俺は『山ガール出会い特集』から目を離して、もう一度秋の山を見渡してみた。何度見ても人っ子一人いない。登ってくる途中にも全く見かけなかったし、よくよく考えてみれば、山道には足あと一つ残っていなかった。
登る山の選択を間違えたんだんだろうか。つくづくツイていない。
生まれてからの三十五年『生きてるだけで丸儲け』なんて自分を励ましながら生きてきたけれど、ひたすらツイてない人生だった。
中学の時の初恋相手は、学校でも有名な不良と付き合っていて、俺の気持ちを知られた途端に、何故かお年玉の五千円を奪われて袋叩きにされた。
高校の時は、誰もやりたがらない仕事を良かれと思ってやっていたら、目立ちたがりと後ろ指を差されて、卒業式には誰とも会話できずに終わった。
大学の時も、社会人になってからもとにかく一事が万事、そんな感じで派遣契約も先月、不景気を理由に切られて、無職三十五歳。親しい友人はいない。
せめて、支え合えるような誰かと出会いたい、そのためにはアクションしないと! となけなしの貯金をはたいて山ガール攻略に乗り出したわけだが、この有様である。
文字通り重荷となったリュックが肩に食い込んだ。
「何が山ガールだ。恋愛主義なんて滅んじまえチキショウ!」
叫びながら雑誌を手の中で丸める。振りかぶって、力いっぱい投げ……かけて思い止まった。事情はどうあれポイ捨てはよくない。
「アホー!」「ぼけー!」「無職なめんなー!」
ポイ捨ての代わりに、ささくれた気持ちの赴くままに山々に向かって叫ぶと段々気持ちよくなってきた。そういえば、久しぶりに大声を出している気がする。
「悔しかったら!」「言い返してみろー!」
調子に乗ってそう言った瞬間、耳をつんざく雄叫びが正面から聞こえた。それも遠くの山からじゃない、割と近く、百メートルも離れていなさそうな位置からだった。
「誰?」
いや、人ではなく獣だろう。でも、ワンとかウオオーンとかならともかく、ガアアアという、人が本気でライオンの声マネをしているような雄叫びに聞こえた。
汗が急激に冷えたのか、体中にゾクッとした寒気が走る。なんだこの感覚。
やばい、なんかやばいぞ。逃げないと。
背を向けて逃げようとした瞬間、視界の端にそれが見えた。
『干からびたサル』
人間の大人ぐらいの体格なのに、その手足や胴体は、枯れ枝のように細い。そして皺だらけの大きな頭を俺に向けて、狂気を漂わせながら四つん這いでサルのように迫ってきていた。
「う、うわああああああ」
俺は一目散に逆方向、元来た道へと走り始めた。
慣れない山道と新品のトレッキングシューズのおかげで踵が靴擦れして皮がベロンベロンに痛む。絆創膏ならリュックに入っているけれど、足を止めるわけにはいかない! 俺は渾身の力を振り絞って山の中を走り続けた。全力疾走に運動不足の体が悲鳴をあげる。
くねくねとした山道を突っ切って通り抜けると、近道したつもりが全く知らない場所へ出てしまっていた。
どこだ、ここ。とにかく山を降りないと!
想定できるトラブルを全て解決できるだけのサバイバルグッズを詰め込んだ巨大なリュックだったけれど、こんなトラブルは想定していない。一歩踏みしめるごとに肩を伝ってその無駄な重みが足へとのしかかった。
すでに山道を大きく外れ、道ですらない林の中を走り続けているが、後ろから追いかけてくるモノの気配は消えなかった。それどころか近づいてくる。
背後に迫る化物がまたライオンのような雄叫びをあげた。
「うるせえよチキショウ! どっかいけ!」
なんで、あんな体で足が速いんだよ!
周りの景色が少しずつ暗くなってきた。山を降りていたはずなのに、もう道は傾いてすらいない。つまり、このままいっても山は降りられない。
それでも、全力で走るしか無かった。
捕まったら、食われるのか、殺されるのか。どちらにせよ、映画の中の宇宙人や恐竜の子供のように、友好的な雰囲気でない事だけは確実だった。
血に染まったような薄暗い紅葉の中を走り続ける。けれど限界の時がきた。
「あ」
足が急に動かなくなり、視界がグルンと下向きに回転して、落ち葉だらけの地面が目の前に、と思った瞬間、猛スピードのままリュックの重みで世界がグルングルンと三、四回転して、地面にうつ伏せに倒れこんでしまった。
痛みに歯を食いしばると、口に入り込んだ土を噛んでしまって更に痛みが走る。
急いで立ち上がらないと! と思うも足が痙攣していて動かない。
「つッ」
まさか、足を攣ったのか、こんなタイミングで! チキショウ!
あの化物はすぐ近くまで来ているはずだ、と思った途端、リュックの上に誰かがのしかかった。
十中八九、化物に違いない。けれど、最後の望みに賭けて、首をひねって背中に乗ったものをこの目で確かめた。
頭髪のない頭にシワシワの顔、歯のない口元からは真っ黒の闇が覗き、息をする度に細い笛のような音が小さく響く。狂気をはらんだその目からは黒目が失われ、白く濁った眼球が、しぼんだまま俺を見ていた。
カラカラに干からびたサル。殺意の権化のような存在。
俺はここで死ぬのか。
新聞には載るのだろうか。それを実家の両親が読むのだろうか。
それとも、誰にも知られず、数カ月後にアパートを訪ねてきた両親によって行方不明扱いされるのだろうか。
二人とも年金暮らしを目の前にして「心残りはお前の嫁探しだけだ」と冗談めかして言っていた。あの二人が、俺を探すのだろうか。この化物に食われて、とっくにこの世にいない俺を『死体が見つかっていない』という理由で、多くない年金を使ってずっと探し続けるのだろうか。
「いやだ」
視界がにじんで、落ち葉が茶色の固まりに見えた。
それだけは嫌だ。誰か、誰でもいい。助けてくれ。
「あ」
肩に痛みが走ったかと思った瞬間、リュックの重みが消え、浮遊感と共に視界が真っ青に変わっていた。
やけにゆっくり動く世界の中で、目に映る空は、冬を控えて青く澄み渡っている。
作品名:キツネのお宿と優しい邪法 作家名:和家