幻の恋人
「お待たせしました。料金は八百九十円でございます」
普通はちょうど八百円だが、信号待ちのせいで料金が高くなったのだと思った。柴山は無言のまま乗務員に千円紙幣を一枚渡し、つり銭とレシートを受け取ってから車の外に出た。陽射しがあっても師走の寒さを感じた。強風ではないが北風が吹いている。
駅前のどこで待ち合わせをすることになっていたのかを、柴山は思い出せなかった。交番の前で立ち止まった彼は、西田恵に電話で確認することにした。着信履歴を利用して発信すると、相手が話し中だった。その周辺で電話を使用中の若い女性は数人居た。だが、その中に白いコートの女性は見当たらない。
「柴山さん。おはようございます」
笑顔でそう云ったのは、昔メンバーだった絵の会で知り合った男だった。
「……月岡さん」
「約束したのが夏だったから、忘れられたかなと思ってましたよ。でも、五分遅れだから許容範囲ですね」
月岡とは五箇月前に一緒に長野へ絵を描きに行ったのを、柴山は漸く思い出した。しかし、今日はどんな約束をしたのかは思い出せない。