幻の恋人
「近くてすみません。駅へ行ってください」
日曜日なので五分前には着きそうだと、柴山は思った。
「駅ですね。シートベルトをご使用ください」
柴山は走り出した車の窓からの風景を眺めながら、再び西田恵の顔を思い出そうとしたが、記憶は蘇らなかった。声の感じは極めて好印象だった。思いやりのある優しい性格の女性を想像させた。そして、現在の年齢は二十代半ばではないかと思う。職業はOLだろうか。スタイルが良く、身長は百六十センチ弱だと思う。美しい髪は長く、微かに染めている。目がきれいで上品な顔立ちに違いない。やや色白で透き通るような肌の美人だと思う。
黄色の信号でタクシーは停止した。急いでもらいたいと云うべきだったと、柴山は後悔した。云わなくても普通のタクシーは黄色の信号では止まらない。黄色から赤になった直後でも、停止することはない。この乗務員は交通法規を頑なに守っている人物なのだろう。印象としては制限速度以下で走行していたような気がする。柴山がおとなしそうに見えたからかも知れない。乗客がヤクザ風だった場合は、こういう運転はしないのだろう。
途方もなく長い信号待ちのあと、ゆっくりと発進したタクシーは、午前十時に駅前に到着した。