黄金の秘峰 下巻
その後、宗田内務班長は足繁く部屋を訪れ、弓削への苛めも機会
が急減した。
弓削は宗田班長が意識的に部屋を訪れることに内心深く感謝した。
戦局は益々厳しくなり、宗田軍曹は南方方面へ転属して行った。
弓削二等兵は心の支えを失った心境だった。
幸い、新たな新兵が入営してきて、弓削は一等兵に昇格し、苛め
の対象は新兵の方へ移って行った。
弓削は苛める側に回ったわけだが、苛めには加わらなかった。
苛めに加われと言われても、加わる気になれなかった、
其の内、弓削達の中隊約二百名も愈々南方へ移動を開始した。
目的地は小笠原諸島の硫黄島だった。
間もなく、米軍艦隊が押し寄せ、此の小島を十重二十重に囲み熾
烈な艦砲射撃を開始した。
島の守備隊二万余人は満州に駐屯していた関東軍も含む、いわゆ
る混成部隊だった。
気候の余りの違いに戸惑う兵も多かった。当然体調を崩した。
昭和二十年二月に入ると、突撃に打って出る部隊も出て来た。
弓削の部隊も愈々最後の突撃をすることになった。
しかし、弓削は負傷のため突撃に加われる健康状態ではなかった。
旅団長の指示により負傷者達は部隊長の面前で自決する筈だった
らしいが、部隊長達の配慮により自決の言葉は用いられず早く全快するようにと言って、手榴弾を枕元に置いて行った。
弓削は愈々最後だと覚悟を決めた。
突撃の前夜、懐かしい顔が枕元に現れた。
宗田曹長だった。
「よう、弓削。どうした?」
「はい、済みません。大した傷じゃないのですが」
弓削が起き上がろうとするのを、手で制して、
「いやいや、無理をせんでよい。ゆっくり休め!」
「済みません」
「ところで、愈々突撃だ。縁があったら又会おう」
宗田曹長はそう言って立ち去ろうとした。
「曹長殿、一寸お待ちください」
「何だ、どうした?」
「お話があります」
「話、何の話だ?」
「唐突な話ですが、実は我が家には代々伝わる山水の掛け軸があり
ます。その昔、武田滅亡の直前に信玄公の命令で、万が一の際の軍
資金を埋蔵した場所を示しているとのことで、私も父に倣って甲斐
の山中を隈なく探索しましたが、遂に見付からず諦めました。宗田
曹長殿、一旦は覚悟を決めましたが若し二人共命永らえた時は、必
ずその掛け軸を持って、曹長殿のお宅をお尋ねすることをお約束し
ます。御武運をお祈りします」
「うむ、分かった。お互い無駄死にはすまい」
立ち去る宗田の後姿を見詰める弓削の目から涙が溢れ出た。
宗田は埋蔵金という言葉に内心ギクリとしたが、表情一つ変えな
かった。
結局、硫黄島の決戦は守備隊二万余の内、僅か三割の兵が戦死、
驚くべきことに六割の兵が自決したと聞く。如何に病人が多かったかを物語るものであろう。
尚、残る一割は何と味方に打たれたことになっている。これは、何を意味するのだろうか。初年兵時代に受けた恥辱を忘れる事が出来なかったと解すべきであろうか?
尚、千名が米軍の捕虜になったと言う。
宗田正太は故郷の山梨に帰った。
家業の山林業に戻ったが気持ちが落ち付かなかった。
あの激戦地、硫黄島で九死に一生を得ての帰国だった。
一旦は死ぬ覚悟を決めた命が、俘虜生活を経て今尚生きながらえ
ていることに、何か意味が有るのではないかと考えた。
彼は政界に打って出ることにした。
時代が変わっても甲斐の国は、源氏の血を引く武田信義以来連綿
と続いた甲斐武田家の領国であった事実に違いはなく、一度は死んだ筈のこの体を、甲斐の繁栄の為に捧げられることこそ男子の本懐と考えた。
先ずは県会議員に立候補し、目出度く当選した。
昭和二十二年の事だった。
今日も正太は、広い庭にあしらわれた泉水の畔で鯉達に餌をやり
ながら、思った。
あの硫黄島での突撃の夜、病床にあった弓削なる男の約束が耳に
残っている。未だに姿を見せぬところを見ると、あの男は矢張り死
んだのか?
正太は、弓削の言った山水画が果たしてあの巨額の埋蔵金の場所
を教える本物の絵図面であろうか、兎に角、真偽の程を確かめたいと思うのだった。
「父さん、ボール拾って!」
息子の源太郎の声が耳に入った。
見ると、足元にゴム製の野球ボールが転がっている。
今年十歳の源太郎が四、五人の友達と草野球をやっている。
最近流行の遊びである。
楽しそうに遊んでいる源太郎の姿を眺めていると、先年亡くした
妻の良子を思い出す。
時折会いに行くフミの存在を知られてから良子との夫婦関係が急激に悪化した。
甲府でも名家と言われる金丸家に育った良子にとって、夫が別の女の所へ通う行為は、自分の高いプライドから絶対に許せなかったのであろう。
それが原因かどうかは分からぬが、胃癌を患いあっという間に亡くなった。医者の話では、気付くのが遅かったらしい。
検査を受けた時は、既に手の施しようがないほど癌細胞が体の各所に広がっていた。
正太はもう一人の息子、腹違いの章夫の顔を思い浮かべた。
母親に似て端正な顔立ちの少年だが、自分には全くなつかず顔を
合わせてもふいと横を向いてしまう。
十四歳と言う難しい年頃のせいもあろうが、幼い頃から自分には
笑顔を見せない子供だった。
矢張り自分の置かれている境遇の不自然さを知って、子供なりに
父親に反発しているのであろうか?
章夫の母、フミは宗田家に代々出入りしている樵の家に生まれた
女だった。掃き溜めに鶴の例えではないが、草鹿沢では、いずれ凄
い美人になるだろうと幼女の頃から噂されていた。
昭和七年、東京では五・一五事件が発生、犬養首相が射殺され世
情は騒然としていた。
然し、ここ草鹿沢にはいつもの静かな時間が流れていた。
フミも成長して十七歳の美しい娘になっていた。
夏の陽射しも眩しい或る日、フミが宗田家を訪れた。
丁度正太が土間で道具の手入れをしていた時だった。
父親の用事だと言って土間の入り口に立ったフミの姿を目にして、
二十歳の正太は全身に衝撃を受けた。
宗田家の所有林はかなり広大なため、昔から大勢の手伝い人を使
ってはいるが、長男の正太も毎日父親と連れ立って山に入り、朝か
ら晩まで植林、間伐、枝打ち、下草刈りと諸々の仕事に追われてい
る。従って、村の娘と恋を語らう暇など望むべくもなかった。
まるで異なった生き物でも見るかのように正太はフミを見詰めた。
見詰められるフミも正太の凛々しい男振りに、はっと目を瞠った。
暫しの沈黙の後、漸く正太が口を開いた。
「どちらさんですか?」
正太の、男にしては涼しげな眼差しに見詰められてフミは顔を真っ赤に染めながら、
「はい、佐野です。父からの言伝ですが明日はのっぴきならない用
事が出来まして、申し訳ありませんが山には入れませんので、旦那
様に宜しくお伝え頂きたいとのことです」
と、どうにか口上を言い終わった。
「佐々、佐野さん。はい、わかりました」
答える正太も舌がもつれた。
この日を境に、正太の心はフミを思う気持ちだけに占領されてし
まった。
仕事の最中でもボーっとしていて、父親に何度か怒鳴られた。
一方、フミも正太と言う突然目の前に現れた青年にすっかり心を
奪われ、家事も覚束ない有様である。