黄金の秘峰 下巻
「私達二人で値段も考えてお店出したのよ。お店開きの時、宣伝し
たでしょ」
「いや、俺全く知らないよ」
「あらっ、何故かしら?」
「海外出張中だったのかな?」
「ああ、なるほど。京子には私が頼んで会社を辞めて貰ったの」
「ああ、そういう事か!」
「ウチのお酒の直営店、つまり、あれです。何とかショップって言
うでしょ」
「アンテナショップだね」
「そう。ところで、譲次さんも、そろそろお嫁さんを貰わないと。
いくつになったら結婚する予定?」
「特に予定なんかないけど」
「ウチの京子なんかどう?」
「えっ、京ちゃん?」
「うん、いい子よ」
「勿論良く知ってるよ」
「京子も一寸行きそびれた観があるけど。でも私ほどじゃないから、
未だ何とか」
「何言ってんだよ。佐和ちゃんだってまだ若いじゃないか」
「あら、お世辞がお上手ね。このおばあちゃんをつかまえて」
「おばあちゃんとは大袈裟な。佐和ちゃんも京ちゃんも綺麗だから
お嫁の貰い手はいくらでもあるだろうに」
「そんなことないわよ」
「そうかな」
「そうよ」
二人は同時にグラスを傾ける。
テーブルには数枚の小皿が並び、ジャーマンソーセージ、ソフト
サラミ、ハム、ツナピコ,カマンベールチーズ等が盛ってある。
譲次はどのツマミが合うかと迷った。
どれも生酒にはピンと来ないものばかりだ。
この分だと自分が先に酔いつぶれてしまいそうだ。
其の時、佐和子が嬉しそうに、
「今日は酔いつぶれても介抱してくれる心強い人が傍にいるから、
安心して飲めるわ」
と言いながら、再びグラスに酒を注ぐ。
そんな佐和子の横顔を譲次は聊か無遠慮にじっと見詰めた。
こんなに近くからじっくり見たことはこれまで一度もなかった。
酔ってでもいなかったら、出来ないことだと自分でも思う。
(それにしても、何て綺麗な人なんだ!こんな美人を奥さんに出来
たら、どんなに毎日が幸せだろうな。まして、酒好き同士で)
佐和子に対して今まで思っても見なかった新たな感情が譲次の身
内に湧き上がって来るのだった。
佐和子は横顔に譲次の強い視線を感じていた。
これまでも男達の視線は度々経験して来たが、今のこの気持ちは
佐和子にとって初めての、とても好ましいものだった。
譲次の視線を決して不躾,無遠慮なものとは感じないのだ。
きっと、見詰める側の気持ち如何で、見詰められる側は不快にも、嬉しいものにもなるのだろう。
酔いが廻り、痺れ始めた頭でそんな事を考えていた。
(今日はトコトン酔ってしまいそう!)
第七章 約束
昭和十八年(一九四三年)
昭和十二年七月七日の盧溝橋事件以来六年を経過した日中戦争に
加え、昭和十六年十二月八日の真珠湾奇襲以来の太平洋戦争も既に満二年が経過していた。
この年、従来二十歳だった徴兵検査が十九歳に引き下げられ、兵
役期間も五歳引き上げられ四十五歳になった。
平時なら、兵役免除に等しい者、即ち、第二国民兵役までが召集
されるようになった。
又、この年には学生学徒の徴兵猶予が撤廃され、二十歳以上は学
徒出陣の名の下に戦争に駆り出されたのである。
「おい、班長が来るぞ!」
その声に上靴を振り上げた古参の三年兵の手が止まった。
上靴を履くと、前でうずくまる男の腰を蹴り上げ、
「運の良い奴め!まあ、後の楽しみに取っておこう」
と、言い捨てると取り巻く兵達を掻き分けて、自分のベッドへ戻っ
て行った。
古参とは言いながら、未だ二十歳を幾らも過ぎていない大柄な青
年である。
部屋に入って来た内務班長は宗田正太軍曹だった。
後ろには二人の伍長が付いている。
血だらけの顔を袖で拭って起立する初年兵を一瞥して、
「余り手荒な真似はするなよ!」
そう言って、周囲を睨み付けた。
十六名の全員が起立している。
班長は、よろけるのを必死に堪えて起立する初年兵の前にやって
来てジッと見ていたが、
「お前の名前は?歳は幾つか?」
と質問した。
「はい。弓削二等兵、歳は四十三歳であります」
「うむ、第二国民兵役か。兵が不足しているからな」
そう言うと、先ほどの古参兵に近付き、
「この初年兵は何をやり損ねたのか?」
若い古参兵は驚いた表情で班長を見詰めている。
その顔には未だ幼さが残っている。
「お前に聞いているのだ。何を失敗したのか?」
「はい。敬礼の挙手の仕方が」
「なに、敬礼の挙手。何処でだ?」
「この部屋内であります」
「馬鹿者!無帽の部屋の中で、挙手の敬礼が必要か!」
「はい」
「はい、という事は必要ということか?」
「いえ、必要ありません」
「じゃ、何を教育したというのか?」
「・・・」
「黙っていては分からん」
「はい。自分が間違っていました」
「間違っていた?」
「はい。間違っていました」
「じゃ、如何すれば良いか?間違っていただけでは済まされんぞ」
「・・・」
「今度は敬礼一つ理解できていないお前自身が教育を受けろ!」
「はい」
宗田班長は弓削の前に戻って来ると、
「おい、今度はお前が教育する番だ」
「はい。しかし」
弓削は躊躇する。
「構わん。出来の悪い息子を教育する積もりでやってみろ!」
「はい」
身体の貧弱な弓削は背伸びすると平手で古参兵の頬を打った。
体格の良い古参兵は全くこたえた様子もなく、平然と立っている。
「そんなことで教育が出来ると思うか。もっと思いっきりやれ!」
弓削は再度平手で打った。
「上靴を使ったのではないか。同じ様にやってみろ!」
「はい!」
弓削は上靴を脱ぎ手にすると思いっきり古参兵の頬を打った。
二度三度繰り返す内に、古参兵の頬が赤くなった。
「それ、もっと腰に力をいれて!」
と言われても、背伸びをしながらでは腰に力は入らない。
「よし、その位でよかろう」
鼻を叩かれた古参兵の顔が漸く血に染まった。
「おい、皆わかったか。理に叶わぬ教育は違反だぞ。初年兵苛めを
わしは許さん」
そう言うと、宗田班長は部屋を出て行った。
二人の伍長の表情は複雑だった。
こう言う例は先ず無い。
二人共、この初年兵はこの後どういう事になるか気掛かりである。
二年、三年の古参兵は一人ではない。仲間が果たして班長の言っ
た事を大人しく聞くであろうか?
どんな陰湿な苛めを考え出すか解ったものではない。
最近他所からこの班に移って来た宗田軍曹は今までの班長とは違
って、規則に厳しい半面、部下達への配慮はきめ細かい。
然し、今のような、いわば逆制裁は古参兵の大いなる反感を呼ぶ
であろう。
伍長達の危惧は現実のものになった。
班内で只一人四十を過ぎた弓削は何かにつけ古参兵達の苛めの対
象となった。
弓削は知っていた。
若い古参兵達の屈折した心理状態を。
彼等は日本の家父長制度の下で父親には絶対服従を強いられなが
ら育って来た筈で、その鬱屈した気持ちが年上の初年兵への暴力となって表れていることを。
弓削は銃の手入れの仕方、身の周りの整頓、帽子の被り方、しま
いには気合が足りないと言っては、ビンタを食らい、柱に登り蝉の鳴真似をさせられた。
或る日、鶯の谷渡りをやらされて、ベッドの下に這いつくばった
ところへ宗田班長が訪れ、急遽苛めが中止されたこともあった。