黄金の秘峰 下巻
は事実なんだよ。私はこの目で其の場面を見ていたのだから」
「見ていたなら、其の時ウチのお祖母さんにあなたから説明すれば
事は済んだんじゃありませんか。何故そうしなかったんですか」
「それは、説明しにくいんだが、当時の私としては、あの場面で飛
び出して行く勇気がなかったんだ」
「勇気、そんなもの関係ないでしょう。親の重大事なんだから」
「親だからこそ、出来なかったんだ」
「どうも仰有ることが分からないですね。兎に角、私にはこれっぽ
っちもあなたにおカネを上げる気はありませんからね」
「あの絵図面を空襲から守るために、私の母は焼夷弾で直撃され即
死、自分もあの絵図面を抱えて火の海の中を逃げ回り、父は父で病
身に鞭打って宗田家を捜し回りながら、力尽きてお宅の門前で息絶
えた。私が語るこの過酷な事実をあんたは只の嘘だと片付けて、平
気でいられるのかね。あんたも大学出のインテリなら、もう少し真
実と言うものに耳を傾けるだけの聡明さを持ち合わせて欲しいもの
だね」
「聡明さ。随分と大仰な言い様ですね。大きなお世話じゃないです
か、私が聡明であろうとなかろうと」
「私はあんたの聡明さに期待して話しているのだ。それとも真実を
認めたくないのかね」
「どうでもいいでしょ。それより、一体別口の埋蔵地は何処にある
んですか?」
「そんなものはないよ!」
「えっ、じゃあなたは嘘話を聞かせるために、わざわざこんな山の
上まで私を引っ張って来たんですか?」
「嘘話ではない。あんたが信じたくないのなら、それは仕方ないが
私の話を嘘として簡単に片付けないで欲しい」
「嫌ですね。嘘の話を信じろと言われても」
「分かった。もう、止めよう、この話は」
「私は下山します。馬鹿馬鹿しくて聞いちゃいられない」
「何?お前、今何と言った?馬鹿馬鹿しいとか言わなかったか?」
「ああ、言ったよ、馬鹿馬鹿しいって!」
「この野郎、言わせておけば!」
正造の脳裏を一瞬過ぎったものは、血まみれになった母の顔や多
田酒造の門前で息絶えた父の姿だった。
気が付けば、尾根道を戻ろうとする健一郎の背中を突き飛ばして
いた。不意を突かれて健一郎はよろよろっと崖際までよろけて行ったが、足を踏み外すと、あっと叫んで崖下へ落下して行った。
余りにもあっさりと事は終わってしまった。
梶原こと弓削庄造本人も内心しまったと思った位だ。
まさかほんとうに最悪の事態となってしまうとは正直なところ、
予想していなかった。
暫し呆然と佇んでいた正造は周囲を見回した。
幸い辺りには他の登山者の姿は見えない。
誰にも目撃された様子はなかった。
安心すると、庄造は恐る恐る崖際まで進み、そっと崖下を覗いて
みた。
視界には健一郎の姿などなかった。
耳を澄ましたが、呻き声すら聞こえて来ない。
もう死んでしまったのだろうか?
それほど簡単に人間は死んでしまうものなのか?
崖下からは「千代の吹き上げ」の名の通り、ひゅうひゅうと
無情の風が吹き上げて来るばかりだった。
「どうだった、うまくいったか?」
「へい、バッチシ撮れました」
「そうか。早速現像に出せ。大事な証拠だ」
「へい」
駒井は若い社員達二人に梶原を見張らせていたが、金峰山へ登る
らしいと聞いておかしいと思った。
(何かあるな?)
と考え、社員二人に梶原を追わせた。
二人には念のためカメラを用意させた。
今流行のズーム付き馬鹿チョンカメラである。
カメラなど縁のない二人にも十分用が足りると駒井が考えた。
一方、梶原は二人に見張られていることに全く気付かず、遂に
多田健一郎を「千代の吹き上げ」から突き落としてしまった。
岩陰から様子を窺っていた二人の社員は、
「おい、やっちゃったぜ!」
「うん、バッチシ撮れたよ。しかもズームで!」
二人は梶原に気付かれぬよう岩陰からそっと抜け出し下山した。
駒井は二人の社員が恐る恐る差し出す写真を見て驚いた。
何が写っているのかも見当が付かない代物である。
ズームを使っている上に、ひどい手振れで被写体が大きく揺れて
形を成していなかった。
「馬鹿野郎、何がバッチシだ。何だこりゃ!」
駒井に怒鳴られ二人はしょげ返っている。
(これじゃ、梶原には見せられねえ。ま、いいか。殺人現場を見た
証人が二人もいるんだから、何とでも脅せるわい!)
そう考え直し、駒井は写真を引き裂くと二人の社員に投げ付けた。
「バーカ!」
二人は頭の上に千切れた写真を載せ更に小さくなった。
第十一章 仏の岩
譲次が社内の写真展に出品した本谷川の紅葉の一枚が、遂に二等
に入選した。
仕方なく没にした例の「千代の吹き上げ」の分だったら、或いは
一等に入っていたかもしれないとも思うが、健さんの遺体発見に寄与したことを考えれば惜しくはなかった。
今宵も生酒のグラスを片手にソファーに寛ぎながら自分がこれま
で撮った作品群を眺めている。
こうして見ていていつも思うのは、自分が気に入った作品がいず
れも奥秩父の山岳周辺の風景ばかりだということである。
矢張り自分にとっての原風景は、こうした奥秩父の山々なんだと
改めて痛感する。
其の時、不意に脳裏を過ぎるものを感じた。
(えっ、何だ?)
通り過ぎかけたものを懸命に呼び戻せば、それは古い記憶の底から突然湧き上がって来たような一片の言葉だった。
「やままたやまのやまおくの」
これは今まで脳裏の片隅に忘れ去られていた遠い昔の記憶をひも
とくキーワードか、何かか?
「やままたやまのやまおくの」
この後はどうなっているのか?
懸命に記憶の糸を探るのだが、言葉はその後が続かない。
自分が未だ幼かった頃に耳にした言葉であろうこと位は推測がつ
くが、一体何処で誰から聞いた言葉か見当が付かない。
譲次はグラスをテーブルに置き、真剣に考え始めた。
自分なりに記憶細胞の隅々まで探しまくってみたが、矢張りそれ
以上はどうにも思い出せかった。
実家に電話し掛けたが、途中で止めた。
年老いた母は恐らく寝入っているだろう。
折角寝付いたところを起こすのは可哀想である。
(そうだ、先ず兄貴に聞いてみよう)
幸一宅の宵っ張り振りは先刻承知済である。
「兄貴、やままたやまのやまおくの、って言葉聞いたことある?」
「何だ、そりゃ。お前大丈夫か。寝惚けてんと違うか?」
「寝惚けてなんかいないよ。聞いたことないかな?」
「さあ、俺はないな。お袋にでも聞いてみたら」
「もう遅いから明日にでも電話してみるよ」
翌日早朝、譲次は早速母親の澄子に電話した。
「お袋、お早う。早速だけど、お袋はこんな言葉知ってる?「やま
またやまのやまおくの」って奴」
「ああ、お祖母ちゃんの謠だね。知ってるよ」
「ああ、知ってた。良かった。其の後はどうなってるの?言ってみ
て」
「其の後は、くがねのやまはひとをくい、ほとけのいわはくがねく
う、ささにくがねのさくときは、でいこくさまのかみをくい、ほと
けのくがねぬしがくえ、だったかな」
「くがねのやまはひとをくい、ほとけのいわはくがねくう、ささに
くがねがさくときは、ほとけのくがねぬしがくえ、で良いの?」