黄金の秘峰 下巻
其の姿はまるでボロ雑巾である。
傍らで十歳ぐらいの男の子が心配そうに声を掛ける。
男はやおら立ち上がろうとしたが、よろよろと座り込んでしまう。
「このまま死ぬ訳にはいかぬ。どうしても宗田曹長殿にお渡しせね
ばならぬのだ!」
そう呟く男の背後に黒ずんだ木箱が置いてある。
それを引き寄せると男は、又呟く。
「これまで散々探し回ったが、結局埋蔵金は見付からなかった。こ
れ以上私の手元に置いていても、何の役にも立たぬ。それよりは、
お世話になった宗田曹長殿にお預けしたほうが、この掛け軸のため
にも良いのだ。きっと、埋蔵地を捜し出されるだろう」
男は、再び起き上がろうとする。
男の子が手を貸し、どうにか立ち上がる事が出来た。
「庄造、箱を持たせて呉れないか?」
庄造と呼ばれた男の子は木箱を取ると男に手渡す。
男は木箱を抱え、よろよろと芝居小屋の外へと出て行こうとする。
そこへ、梶原美登里が通り掛った。
旅回りの女剣戟一座を率いている。
気風の良い、三十半ばの女座長である。
「あれまあ、弓削さん、無理しちゃ駄目だよ。あんた、出歩けるよ
うな体じゃないんだよ。ろくに食事もしないで、みんな坊やにあげ
ちゃって。少しばかりの食糧を分けているんだから、あんたも食べ
なきゃ」
「どうも済みません。お世話になっています。今日はどうしても行
かねばならない所がありまして」
「行かねばならない所と言ったって、其の体じゃどこへも行けない
よ。熱だって未だ下がっていないようだし」
「ご心配を掛けて申し訳ございません。今日はまだ気分も良いよう
なので、勝手を言って済みませんが、一寸出掛けて参ります」
「そうかい。無理しちゃ駄目だよ。具合が悪くなったら、途中から
でも引返して来た方が良いよ」
「はい、そうします」
弓削はそう答えると、小屋を出て行く。
やっと歩く其の姿を見詰めていた庄造が叫んだ。
「父ちゃん、俺も行く!」
「父ちゃんは大丈夫だ、心配するな。直ぐ帰ってくるからな」
弓削はふらふらと甲府駅の方へ向かう。
庄造は、父親に見付からぬよう、後を付けて歩き出した。
弓削は駅前を通り過ぎ西の方角へ伸びる広い道を心許ない足取り
で行く。その父の後姿を心配そうに見守りながら庄造は追う。
今から数ヶ月前の事、弓削が捕虜生活から開放されて自宅のあっ
た東京へ帰って来て目にしたものは、焼け野原の中に散在する掘っ
立て小屋の群れだった。
住んでいた辺りの小屋を、一軒一軒覗いて回ったが妻と子供はど
こにも見当たらなかった。
妻子を捜すにも当てがなく、何となく人の多そうな上野駅周辺に
足を向けた。
駅の手前で路地に群れる子供たちを目にした。
若しや庄造がいやしまいかと一人ひとり顔を確かめた。
しかし、その中にはいなかった。
弓削は場所を変え、子供の群れの中に庄造の顔を捜し歩いて、地下道の入り口まで来た。
「ショウ、俺に呉れ!」
体格の良い少年がそう言いながら、小柄な男の子から無理矢理、
何かを取り上げようとしている。
しかし、その男の子は手に握った物をしっかりと握り、離そうと
しない。
弓削はその男の子の顔を見てはっとした。
一人息子の庄造であった。
弓削は駆け寄り大柄の少年の頬を引っ叩いた。
いきなり叩かれて、驚いた少年は、
「痛えな、おっさん、何するんだい。あんたにゃ、関係ねえだろ。
あっちへ行って呉れよ!」
「うるさい、この子は私の子供だ。君こそ乱暴するな!」
「何だ。おっさんの子供か?」
そう言うと少年は急に大人しくなり、
「ショウ、良かったな、父ちゃんに遭えて」
「うん」
大柄の少年は淋しそうな表情で言った。
「元気でな」
「トンちゃんも元気でね」
「あっ、そうだ。ショウ、あれ、忘れちゃだめだ」
「そうだ。取ってくる」
そう言って庄造は路地伝いの石垣の間から細長い木箱を取り出し
た。弓削はそれを見て驚いた。
焼けたとばかり思っていた掛け軸の箱が無事だったのだ。
「庄造、それ、焼けなかったのか!」
「うん、母ちゃんが焼夷弾から守ったんだ」
弓削は息子の手を握ると、
「母ちゃんは何処にいる?」
聞かれた庄造は目に涙をいっぱいためて、
「母ちゃんは空襲で死んだよ」
と答えると、わーっと泣き出した。
父に遭えた嬉しさと死に別れた母への思いがない交ぜになって、
これまで堪えてきたものが一挙に噴き出した。
「よしよし、分かった、分かった。もう心配ない、父ちゃんが帰っ
てきたんだから」
それから弓削は息子と二人で御徒歩町の屋台店の通りへ行き一膳
飯屋で水団を食べながら、これまでの妻子の様子を聞いた。
庄造の話によれば昨年三月十日の東京大空襲の際、妻の清子は縁
の下に掘った防空壕に逃げ込むのが遅れて焼夷弾の破片を頭に受け
ての即死だったと言う。
それも掛け軸の入った木箱を取りに戻っての事だったらしい。
庄造は母の抱える木箱が余程大切な物と思って、それを取り上げ
ると燃える家から飛び出し、一目散に逃げた。
人々が逃げ惑う中をすり抜けて、兎に角火の手の少ない方へと逃
げる内に、上野の山へ辿り着いたと言う。
空襲が止んで落ち着いてくると、人々は次第に元の土地に戻り生
活を始めたが、親を失った子供は次第に群れを作り、店の物を盗んだりして飢えを凌ぐ知恵を持つようなったらしい。
先刻、庄造が手に握っていたのは、ジープに乗った進駐軍の兵隊
から貰ったチュウインガムだと言う。
弓削は子供達の意外な順応力と言うか、逞しい生命力に感心した
のだった。
弓削は無事だった木箱の掛け軸を約束どおり宗田曹長に手渡す決
心をすると、庄造を連れて山梨へ向かった。
向かうと言っても車や電車ではなく、徒歩である。
何日掛るか分からぬが、兎に角道を間違いなければ、必ず辿り着
ける筈と考えていた。
ところが、弓削の体はこれまでの無理が祟って肺炎を罹っていた
のだった。
日を追って悪化する容態に、弓削自身は気付いていたが、宗田と
の約束を果たさねば、の一心で無理を押しての徒歩の旅を続ける内
に、遂に浅川駅(現在の高尾駅)の辺りで道路わきに倒れこんでし
まった。
そこへ後から来たのが、女剣戟の一座だった。
「座長、あそこに誰か倒れていますね。子供連れが、気の毒に」
言われた座長の梶原美登里が一行の足を止めて、弓削の傍にやっ
て来た。
「どれどれ、おや、これはかなりの熱だね。放っておくわけにもゆ
かないね。お医者さんの所へ連れて行かなくちゃ」
それが縁で弓削親子は梶原一座の世話になる。
遂に甲府に着いたものの弓削の容態は良くならなかった。
手当てが遅かったらしい。
弓削は息子の庄造が後を付けているとも知らず、S町に入った所
で精魂尽きてしまい、その場に倒れ込んでしまった。
多田酒造と書かれた大きな看板が目に入ったが、後は目の前が暗
くなり意識も薄れて行く。
門内から中年の女が駆け付けて、耳元で何か叫んでいたが,弓削
は声を出すどころか既に朦朧とした状態だった。
宗田曹長殿の所へ、と言う積もりだったが声にはならず意識の遠
のくのが自分でも分かった。