小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」
サルバドール
サルバドール
novelistID. 32508
新規ユーザー登録
E-MAIL
PASSWORD
次回から自動でログイン

 

作品詳細に戻る

 

塗り替えられた記憶

INDEX|3ページ/4ページ|

次のページ前のページ
 

わたしは隣の由里子にゆっくりと顔を向けた。絹のようにきめ細かい髪の中から小さな横顔が覗いている。その中で光と影が同居している。光は白い染みのように鼻梁や口元に拡がり、影は黒い痣のように額や目の下を覆っている。殺された? 口から勝手に言葉が零れる。虚空に漂うそれは、虫の羽音より小さい。本当に何も知らないのね、そこで言葉を切って、由里子はわたしの顔を見た。眼窩にはめられた目は、よく磨かれたレンズのように透き通っている。わたしの意識はその中に吸い込まれた。暗幕を引いたように目の前が真っ暗になり、次の瞬間、わたしは暗い穴に引きずり込まれた。その中を物凄いスピードでわたしは移動している。自分が動いているというより、周りの風景が勝手に動いている感じだ。穴の底は見えない。漆黒の闇がどこまでも広がっているだけだ。風景が目まぐるしく動いて、闇が自分の身体を射し貫いていくような感覚を覚える。それはわたしの中で溶けて、紙の上に黒のインクを零したようにじわじわと広がっていく。瞼の裏側で黒い靄のようなものがゆらゆらと揺れ、やがて、それは一つの形を為した。街だ。夜に染まる街だ。大昔のモノクロ映画に出てくるような街が眼下に広がっている。わたしの意識がそこへ向かって降りるにつれて、街の風景が次第に色彩を帯びていく。群を為す建物、通り過ぎる車の車体、行き交う人々の衣服や皮膚、差している傘などが本来の色を取り戻していく。色付けが終わり、闇が完全に飲まれた瞬間、女の声がどこからともなく響いた。彼はね、刺されたのよ。それは耳の裏側で何度も繰り返された。刺されたのよ。刺されたのよ。刺されたのよ。刺されたのよ。刺されたのよ。刺されたのよ。さされたのよおおおおおおおおおおお。音割れした声は、獣の雄叫びのようになって頭の中を駆け巡り、鈍い響きを吐き出しながら段々と小さくなっていった。両の耳から手をどけて、目を開けると、そこには見慣れた街が広がっていた。都心から50キロほど離れた郊外の街だ。開発が盛んな新興住宅街で、真新しい家が犇めき合うように軒を連ねている。わたしはそれらを遥か上空から見下ろしている。四角い屋根や丸い屋根の建物が平面的に散りばめられ、細いチューブのような道路が縦横に張り巡らされている。それらは降り注ぐ大量の雨を浴びて、心なしか膨らんで見える。チューブの上を青い物体が移動している。点のように見えるそれは傘だ。傘の上で雨が躍っている。弾かれた雨粒が靴の上に落ちる。靴は男物の靴だ。わたしはそれを見たことがあるような気がするが、誰のものだったか思い出すことができない。男は靴の上の雫を蹴るように弾きながら、雨に煙る街を歩いている。その先には、わたしとアキラが同棲しているマンションがある。青い点はそこに向かって確実に動いている。よく見ると、その後ろで白い点も移動している。住宅街を囲む白い塀と重なって分かりにくいが、レインコートを着た女だと分かる。そいつは、歩く速度を徐々に速め、背後から青い点に覆いかぶさった。青い点と白い点が降りしきる雨の中で静止した。緩慢に時が流れた後で、白い点がゆっくりと後ろへ身を引き、それに呼応するかのように青い点が地面に崩れ落ちた。わたしは白い点と青い点が重なっている場所へ意識を移動させた。濡れたアスファルトの上に傘が横様に倒れていて、その中から黒い靴に覆われた足が伸びている。男の背中にはナイフが生えていて、傷口から血が溢れている。青い傘を払いのけて、わたしはスーツ姿の男の顔を見た。瞬間、わたしは口元を押さえた。アキラだった。アキラは目を見開いたまま、苦しそうに息絶えていた。わたしは、おそるおそる、後ろを振り返った。レインコートを着た女がこちらを見下ろしている。倒れている男だけが眼中に入っていて、わたしの存在には気付いていない。女はその場に屈み込むと、男の背中からナイフをゆっくりと引き抜いた。ナイフはその先端が朱に染まっていて、鮮やかな鮮血が糸を引いている。女がレインコートのフードを捲って、口の端を歪めた。その顔を見た時、わたしは胃からせり上がる吐き気を押さえこまなくてはならなかった。その女は、どう見てもわたしだったからだ。わたしは何度も首を振った。違う、違う……そんな、そんなはずないじゃない。アキラの死体とそれを見て嗤う女の顔が交互に映し出されて、わたしは絹のような叫び声を上げる。やめて、やめてよ。空を見上げ、声を限りに叫び続ける。大量の雨が顔を刺す。それらに混じって柔らかい声が空から降りてくる。小枝子、小枝子……。その声が身体の中に入っていき、再び、目の前が真っ暗になった。

小枝子、小枝子。由里子に肩を叩かれて、わたしは我に返った。どうしたの? 由里子が心配そうにわたしの顔を覗き込んでいる。ごめんなさい、わたしは絞り出すようにそう言って、額の汗を拭った。由里子がバックからセリーヌのハンカチを取り出して、わたしに貸してくれた。ありがとう。赤ん坊の肌のように柔らかい布で、わたしは汗を拭う。その様子を、由里子は好奇の眼差しで見る。汗を拭いながら、わたしは訊いた。どうして、彼は殺されなければならなかったの? 由里子は首を横に振って、分からない、と答えた。詳しいことは私には分からないの。ただ、これだけは言えるわ。そう言ってから、彼女は後を続けた。彼を殺さなければならない人間がこの世にいるとしたら、その人間は限られてくるわね。彼女の言った意味をわたしはすぐに理解した。しかし、それを口に出す勇気はなかった。